部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2014年1月17日
遅まきながら、映画「SAYAMA 見えない手錠をはずすまで」を鑑賞させてもらった。
淡々とした映画だが、心から石川一雄さんが犯人でないということが再確認でき、サッちゃん(早智子さん)との夫婦愛が描かれたジワッと暖かみのある映画に仕上がっている。
監督の金聖雄さんの性格が反映しているのだろうか、“拳を突き上げ”、“声高らかなシュプレヒコール”といった場面はいっさいなく、石川さんの日常生活を通じながら50年以上もえん罪を訴え続ける不条理を淡々と描いている。
石川さんが犯人でないという数々の証拠や、なぜ自白したのかなど、事件の核心部分を真正面から取り上げるのではなく、あくまで側面の部分としての説明にとどめ、石川さんとサッちゃんが生活を紡いでいく様を描いたところに、犯人ではありえない石川さんの素顔が、鑑賞した人たちにゆっくりと確実に伝わったのではないだろうか。
わたしは、石川さんが「無罪判決のその日まで、両親のお墓にはいかない」と言い続けてきた固い意志に感銘を受けていたひとりである。
しかし、映画のなかで石川さんは、サッちゃんに墓にいくことを勧められると、これまで守ろうと続けていて途中で挫折したことがあったのだろうか、「最後のこれだけは意志を貫きたい」とボソッとした声で語る。その石川さんの姿に人間くささを感じた。
狭山闘争は部落解放運動における「三大闘争」のひとつに位置付けられ、解放運動における中心課題であり、もっとも多くの人々を結集させた一大運動であった。つねに石川さんはヒーローであり、主人公であった。挨拶も決意表明も、いわゆる運動的で大衆を鼓舞するような言葉を用いて石川さんは熱っぽく語る。それは狭山闘争のリーダーとして運動を牽引していこうとする自覚がもたらすものであったのだろう。
しかし、狭山事件はえん罪事件であり、石川一雄さんはその被害者である。再審闘争の現状や今後の展望は、本来、弁護団や運動関係者が語るべきものであり、被害者である石川さんは、淡々と不当な判決への怒りや憤りを自分の言葉で語り続けることが、再審を求める当事者であるべきなのだろうと思う。部落差別による予断と偏見を一身に受けた被害者が、石川さんである。本当は両親のお墓にいって、手を合わせたいという「本音」が感じされる姿に、にんげん石川一雄を見たような気がした。そして、これが石川さんだと思った。
完璧な人間など存在しない。多くの失敗を重ね、少しの成功に喜び、人間は成長していくものだ。部落差別によって、ろくに学校へも通えず、きちっとした仕事に就けず、“無知”であった当時の部落の青年、石川一雄さんが別件逮捕された。「犯人は兄貴だ」との警察の脅しともとれる取り調べにより、ウソの自白に追い込まれ、51年が経過した今日においても、犯人・石川のレッテルは剥がれていない。
映画の中で足利事件の菅家利和さんは「石川さんをはじめて見たときに犯人でないと確信した」と語る。石川さんの人間性を見れば、「こんな人が犯人ではない」「人殺しなどできるはずがない」ことを多くの人たちに知ってもらえる。それが大事な狭山闘争でもあることをこの映画にあらためて教えてもらったようだ。
是非とも多くの方々に見てもらいたい映画である。