識字・日本語教室で学ぶ機会を公と民のコラボで

水平時評 府連書記長 赤井隆史

大阪市教育委員会が実施している識字・日本語教室について、今後の教室のあり方や指導するコーディネーターの実態把握などに取り組んでいこうという方向が検討されているようである。

識字・日本語教室は、部落差別や貧困、歴史的経緯による在日コリアン、さらには、病気や障がい、また、新たな渡日者や外国籍住民などさまざまな理由により、読み書きや日本語の会話等に不自由している人々の実生活に即した多様な基礎的学習ニーズに応える開かれた成人基礎教育の場として実施されている。

大阪市においては、1969(昭44)年から実施されており、地域、国籍を問わずに開かれた成人基礎教育の場としての成果を上げてきている。

当然、被差別部落においても解放会館時代から隣保事業の一環として取り組まれており、読み書きの習得はもちろん字を覚えることにより、社会への参加意欲を育むことにもつながってきており、自尊感情の醸成に計り知れないほどの良い影響を与えてきたことも事実である。

この識字・日本語教室が開かれている大阪市内の被差別部落にある市民交流センター(旧解放会館)が来年3月末を持って閉館となることが決定されており、新たな年度である2016年4月から新たな教室を確保しようと関係者が東奔西走しているようである。
現在、学習登録者が327人、ボランティア登録者231人の行方が注目されている。学ぼうとする機会を大阪市教育委員会としてしっかりと保障してもらいたいと思っている。

しかし、ヨーロッパでは難民の受け入れ問題が国挙げた大問題となっており、その国の就労構造そのものを変えかねないと言われるほどの問題にまで発展している。対岸の火事のように日本は受けとめているが、アジア各国で難民の受け入れという問題がクローズアップされる可能性は否定できない。それほどグローバル化は進行しているのだ。外国籍住民が急増するようなことが起これば、たちまち識字・日本語教室はパンク状態に陥るだろう。
また、一方では格差拡大の傾向、派遣労働法の改正などにより、若年層のフリーター、働いていない不就労といった状態が増加の傾向をたどっている。低学力と就労という問題は大きく結びついており、低賃金や不安定就労という現実は、学歴が低いほど深刻さを増しているようだ。
求められる識字能力を獲得するために20代や30代という年齢から一念発起して学ぼうという“こころざし”を持つことを応援する識字・日本語教室の役割はきわめて大きいことは想像に難くない。

場所の確保、教材費の捻出、コーディネーターやボランティアの協力などを引き出すためには、公的な協力が必要であり、幾ばくかの予算が必要であることは言うまでもない。
国際化の進展、格差社会の進行という課題があわせ持つ「会話・読む・書く」力の習得を求めようとする欲求に対して、公的責任で場の提供やインセンティブを準備するといったことの必要性が求められていると思う。
費用対効果という視点からも、学びを求めてエンパワメントしようとしている学習者の、その将来を見込んで人物に投資するという“先物買い”的な発想が行政にも必要ではないだろうか。

すべてを公(行政)が担うと言うことではない。しかし、社会に参加していこうという力を応援する。それを導き出すという仕事は、公が担うべき役割だと思う。そのバトンを受けてしっかりとした地域での応援体制をつくりあげることは、隣保機能という観点からも地元やNPOの役割としてキャッチすべきである。
公と民とのコラボで、「会話・読む・書く」という力の習得-識字活動に取り組んでいこうではないか。微々たる予算ではあるが、こんな施策を推進するということを公約に掲げて大阪市長選挙が闘われてほしいものだ。