部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2019年7月9日
「『大阪維新の会』は、保守か、革新か、どちらと思いますか?」。ある大学で生徒に尋ねた教授がいた。ほとんどの大学生は躊躇することもなく「革新」を選択したという。
そもそもの保守か、革新かという本質の論議ではなく、政党のイメージとして学生にうつった印象を聞いたのであり、従来の既成政党にはない新鮮な印象を、「大阪維新の会」が持っており、改革のイメージとをあわせ持つことで、多くの有権者から支持されているという事につながっているのであろう。
「維新」に対してそんなイメージを持っていると言うことから、だから日本は保守化・右傾化していると短絡的に決めつけるのもどうかと思う。民主党から分裂や離合集散を繰り返し、現在では立憲民主党や国民民主党という政党に変遷してきているが、生まれては消えていく野党に、多くの有権者の支持離れが加速している現実が一方である。ここ大阪ではこの有権者の多くが維新への期待に変わっており、この間の選挙結果も同様で“大阪維新一強”が色濃く反映している。
日本社会が保守化・右傾化しているのではなく、革新=リベラルが絶望的なまでに退潮しているとは言い過ぎか。革新政党を自認する共産党ですら、若者からは「保守政党」と見なされているのである。保守かリベラルかというイデオロギー対立以前に、そもそも政治勢力として見なされていないほど、野党への期待感は薄れ、「なにも変わらないなら自民党へ」「まだ安倍の方がマシやろ」という消極的選択をせざるを得ない選挙にしてしまっているという責任を、野党が肌感覚として感じとるところからスタートする必要があるだろう。
「民主主義を守れ」と大きくこぶしを振り上げれば上げるほど若者たちは政治から距離を置こうとしているのではないだろうか。「日本は平和な民主主義である」「生活は厳しいが、多少の我慢は仕方ない」といって、若者は、政治を否定することもなく、肯定することもなく、日々の生活に満足感はないものの“無理はしない”“自分は、こんなもんで良い”と無関心を決め込むという現状だと思う。
「安倍一強」を支えているのは、野党がまとまらないことや選挙制度そのものに原因がすべてあるわけではない。実は、それは“無関心”にあると言われている。
「もう国家というモノに意味をなさないように思われていて、政権を信用するとかしないとかというレベルではなく、人々の関心がそこにはないという捉え方をするべきではないか」と警鐘を鳴らしているヒトさえ存在する。
作家の高村薫さんは4月30日付の「朝日新聞」で、「大人も子どもも日夜スマホで他者とつながり、休みなく情報を求めて指を動かし続ける。そうして現れては消える世界と戯れている間、私たちはほとんど何も考えていない。スマホは、出口が見えない社会でものを考える苦しさを忘れさせる、強力な麻酔になっている」と指摘しており、そこには“思考停止”が国民全体に広がりを見せていると危険性を指摘している。
人間らしい想像力や思考力をどんどん低下させていっているのが、スマホだとも言われている。狭い画面の中に魂を吸い取られてしまうような若者が増えていく中で、仮想世界と戯れるばかりでほとんど何も考えようとはしないという恐ろしい傾向は深まる一方だ。それが「安倍一強」を支えているのだとすると、相当やっかいな政治不信だ。
「自由に生きちゃダメですか?」と政治に問いかけているかめいし倫子さん。思考停止だといわれている若者を中心とする無関心な層に、このメッセージは届くのだろうか。自由とは・・・決して現代社会は、自由ではなく、自己責任が跋扈し、マイノリティに対しては、生産性がないと排除され、不良品呼ばわりされているのが現状だ。頑張って働き続けたひとたちに対しては、年金だけでは無理だよ。2000万足りませんよ、といわれる優しくない社会。自由がない社会。パートナーのDVから逃れるにも住むところがない。行くところのがないひとたちが多数存在している。
「自由に生きたい」-そのためには社会参加し、あなたの一票を行使することだ。約半数近くのひとは、わたしの一票で世の中は変わらないと投票所に行かないのだろう。たしかに一票ごときで変わるわけではない。しかし、自由のための投資であり、自由を獲得するためには権利を行使することだ。
「自由に生きちゃダメですか?」という元気アプリを発信し続けることが、かめいし倫子の最後の奮闘だ。わたしたちも大いに自由を獲得しに行こうではないか。