部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2019年8月9日
最近、テレビや新聞でやたらとポピュリズムという言葉が浮上してきている。
西のポピュリストが橋下徹さんなら、東のポピュリストが山本太郎さんだとマスコミ界が騒いでいる。
市民と権力者という構図をイメージさせ、市民が善で権力者が悪と二分させ、敵と味方を明確化させる政治手法だ。
では、このポピュリズムは、民主主義と何が違うのか。
政治に対立を持ち込むという点が民主主義とポピュリズムの大きな違いのように見えているが、そもそも政治の政策論争は対立であり、政策論議が原点だ。だとするとポピュリズムも民主主義も重なる部分が多く、最近のトレンドから推察すると、“カリスマ性を持ったリーダーによる扇動”という強いリーダーシップを持った人物をイメージしてポピュリストと表現しているに他ならないではないだろうか。
橋下さんは、行政の統治機構の改革という政策を訴え、それを邪魔する既得権益者として大阪府や大阪市の官僚をやり玉に挙げた。さらには、労働組合であり、予算に群がる守旧派組織などを敵だと断定し、それを一掃することが、身を切る改革だと訴え、それが大阪維新の強みとなり、この大阪の地においては、強い支持基盤を持つまでとなった。
一方、山本さんは、明確に安倍自民党政権とエリートと称される、いわゆる勝ち組を敵だと位置づけ、「ロスジェネを含む、全ての人々の暮らしを底上げします!」と訴え、30歳代から50歳代をターゲットに貧困や引きこもり、フリーターといった年収200万円未満で生活をしているヒトたちに対して、敵は“政府であり、勝ち組だ”と主張し、一定の支持を得ている。
さらには、比例の特定枠を使い、重い障がいを抱える2名を国会に送り込むという成果を収め、次の衆議院選挙では台風の目として注目を集めている。
参議院選挙中、街頭演説をする山本太郎さんに「クソ左翼死ね」という言葉が浴びせられた。山本太郎さんはそのヤジに対して、「ありがとうございます。クソ左翼死ねというお言葉をいただきました。死にたくなる世の中を変えたいために私は立候補してるんだ。みんなに生きていていただきたい。」と切り返した。これがSNS上では“神対応”だと評価され、ネット上では多くの共感が広がったと言われ
た。
こうしたポピュリズムと対立する価値観として、リベラリズムが挙げられる。
異なるものを平等に扱うという考え方が底辺を支えている。例えば、生まれ育ってきた背景や性別、人種などが違っても、平等に扱われるべきであるという考え方である。それに比べ、山本さんは、中卒、高卒、非正規や無職、障がいや難病を抱えていても、将来に不安を抱えることなく暮らせる社会をと訴えている。どこに重きを置いた政策かが、一目で理解できる。
一方の橋下さんは、維新の会のホームページに、「今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リンゴのなる木の土を耕し直します」と訴えられている。いずれもが現状打破であり、現在の政治のリセットを掲げていることが理解できる。
両者ともに、現状を変えたい。根底から一度リセットしたい、という政治感覚は一致している。そしてふたりともが熱狂型であり、熱烈なファンの存在がある。しかし、やはりポピュリストであり、扇動型政治家が陥りやすい・・・劇場型政治家の典型でもある。気になる点はふたつだ。
そのひとつは、権力の占拠だ。自分たちへの賛同者以外を排斥しようとする非寛容な対応だけは、常に戒め、それに陥ることのないようにしてもらいたいものだ。
ふたつめには、批判的な市民社会の抑圧だ。端的に自分たちの考え方を批判する団体や民間活動を抑圧することだ。そのふたつの共通項は、いずれもが“非寛容”を意味しており、時代の寵児という期待は、一歩間違えば独裁につながる危険性と表裏一体であることを常に自分に言い聞かせなければならないことでもあるだろう。
わが同盟組織は、カリスマ性を持ったリーダーの登場を待っているというわけにはいかず、常に草の根の「下から」の改革をめざすよう、部落解放運動本来の運動の展開を心がけなければならない。それは常に寛容さを持ち続け、排除ではなく、包摂の立場での運動展開が求められることは言うまでもない。
常に謙虚さを持ち続け、歩み寄る態度で臨みたいものだ。