部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2020年8月24日
最近読んだ本のなかで「パレートの法則」という言葉が目にとまった。人が行進するパレードに法則があるのか?と先に目をやれば、イタリアの経済学者が発見した法則だそうで、経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという理論のようだ。80:20の法則、ばらつきの法則とも呼ばれるらしい。
その本では、会社に必要な利益をもたらす人間は、全体の2割だそうで、残る8割の人たちはまあ言ってみれば必要ないんだという排除の考え方で説明されている。また、その残り8割の人たちで集団を形成すれば、またその中の2割が利益をもたらすような仕事をし、残り8割の人たちは不必要であるというレッテルが貼られるというひとつの経験則みたいな考え方である。
一部が全体に大きな影響をもっているという例えのひとつとして使われるケースが多く、「パレートの法則」という名を借りてそういう考え方を補強している場合が少なくないということだ。
その本の中では、生活保護受給者の例えとして紹介されており、日本経済を引っ張ってるのはごく限られた2割の人間で、それ以外が8割。その8割の中で少ないなりに利益をもたらしているのが、また2割で8割がそうでない人たち。また、その中で〜(以下同)と進めていき、最終的に残った人間が生活保護受給者であると“パレートの法則”を使って説明する場面が登場する。生活保護を申請するひとたちに対して、社会に不必要な人たちだと説明したい類いとして用いられている。
100人が加盟する団体組織があれば、その中の20人が利益をもたらすような仕事をする。残った80人で新たな仕事をつくり出せば、その2割の16人が利益を上げる。さらに64人で新たな仕事を展開すれば、12人が努力し利益を上げる。という展開が“パレートの法則”ということになる。
2016年に起きた相模原障がい者施設殺傷事件で、犯人の植松聖死刑因は、政府が財政難にあえぐ中、障がい者への福祉政策への予算配分に疑問を呈し、政府の借金が膨大になる原因は、この障がい者を延命させるために税金をつぎ込むことにあり、国の将来を憂い、危機感を募らせていたと当時を振り返っている。この考え方が肥大化し、独善的な身勝手な「正義感」により、殺傷事件を引き起こすこととなる。
行き過ぎた競争による自己責任社会が、多くの人を追い詰めている現状にあり、80:20の「パレートの法則」が、どんどん加速され、小さな小さな集団になった時、障がいを持ったひとや生活困窮者、ホームレスといった階層のひとたちの「命が選別」され、“命に値札”がついているような社会が形成されようとしている。
いっぽうで所得の格差は「パレートの法則」以上に広がっている。富を蓄積する富裕層は全体人口のほんの数パーセント、圧倒的多数の貧困が広がるという社会構成である。そして、その輪が小さくなればなるほど、社会から排除され、「命の選別」の対象であるかのように誤解してしまう同調的な圧力が社会に蔓延しているのではないだろうか。
「生産性」が高く、自分はこの社会や組織に「役に立つ」ということを常に発信し続けなければ、自分の生きる価値が存在しないのではないかと追い込まれている人たちは少なくない。多くのひとが日々のプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも一生懸命にもがき苦しみ生き抜いている。だからこそ、少しでも守られて楽をしているように見える人たちをバッシングする風潮がこの社会に蔓延してきているように思えてならないのである。
「自粛警察」「マスク警察」「帰省警察」のどれもが、「自分が社会に役にたたないといけない」というピリピリした感覚から発するものであり、「わたしは8割の中の人間でも、次には2割に選ばれる人間なのだ」という自己主張そのものである。だからこそマスクをしないひとに罵声を浴びせ、田舎に帰省する人へはビラで中傷し、「わたしは役に立っているがこの人たちはルールを守らず社会には不必要な人」だとレッテル張りを繰り返すのである。新型コロナウイルスに関しても、ゼロリスクという理想を掲げ、感染者ゼロを目指すことは立派かもしれないが、突き詰めるとそれは感染者を徹底的に差別する心理に結びついているのだ。
命に「値札」をつける行為など断じて許されるべきものではないことをあらためて戒めたい。