部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2021年2月8日
国会での審議がたったの4日間で新型コロナの特措法関連法案が可決してしまった。立憲民主党と自民党による審議前の修正協議が合意に達したことにより、国会での論議も早々に可決、成立された。
この修正協議によって、自民党としてはどうしても踏み込みたかった刑事罰をあっさりと引っ込め、行政罰である過料にトーンダウンさせ、金額も大幅に引き下げられるという決着となった。新聞各紙には、「自民党の大幅な譲歩」とか、「立憲の意見を取り入れて法案成立」という見出しが躍った。
たしかに立憲による自民党との修正協議により、大幅な改正を成し得たことについては評価するが、刑事罰であれ、行政罰であれ、政治の分野で、「罰則」規定まで踏み込む、自由と人権に政治権力側が制限を加えるという問題点は改善されないまま法律が成立したことになる。
あくまで政府や権力という機構は、国民や市民に対しては、“お願い”がベースでなければならず、従わない者については、法的に処罰するという考え方は、権力の恣意的な横暴を許すことにつながる危険性がつねにつきまとうものとして捉えておくことが重要だ。
一方市民の側は、緊急事態宣言による協力要請に対して、あくまで“自発的”に自らの意志で協力すべきものであり、そこには義務や罰則、罰金といったペナルティが存在してはならない問題である。
本来、基本的人権の尊重とは、自由に生きるための権利である自由権、等しく生きるための権利−平等権、人間らしく生きるための権利−社会権、人権を守るため政治に参加する権利−参政権という4つの権利の事を指しており、侵すことのできない永久の権利としてこれを保障しなければならないと規定されている点からも、人権に制限を課すことは政治の分野では踏み込んではいけない領域といえる。
再延長された緊急事態宣言は、あくまで自粛ベースが基本となり、「三密を避ける」「マスク・手洗いの徹底」「不要不急の外出」という市民へのお願いと協力という政府からの呼びかけでなければならない。それが、強制をともなう私権の制限を強め、政府に大幅な権限を与え、人権保障が大きく後退するような今回の法改正に対して、今後の国会での論戦により、とくに罰則規定の無力化が実現できるよう立憲をはじめとする野党に期待したいと思う。
コロナ禍における飲食業をはじめとする業者への補償と感染症防止という目的を超えて、いたずらに基本的人権の制限が強まらないように、憲法に立ち返り憲法にのっとって検討していくことが重要である。
とくに立憲主義を掲げる立憲民主党の党是から言っても譲ってはいけないことを強調しておきたい。
わたしたちは、コロナ禍を克服して、また元の生活を取り戻したいと誰もが思うのが当然ではあるが、その“元”とはどの時点を指しているのか、そこへ“戻る”ことが本当に可能なのか、ということを真剣に考える機会にしなければならないと思っている。
もっと言えばコロナ禍が、資本主義によってとめどなく生み出されて来た過剰・過密の文明の結末を意味していると指摘する学者も登場しており、地球そのものの存亡さえ危ぶまれている。アメリカの科学誌では、核戦争などによる人類滅亡を午前0時に見立てた「終末時計」の残り時間が「100秒」と発表しており、「パンデミックは歴史的な警鐘だ」と指摘し、人類の存続に関わる脅威に対処する準備ができていないと解説している。
斎藤幸平さんのベストセラー『人新世の「資本論」』はその冒頭で、「SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背かせる……現代版『大衆のアヘン』である。アヘンに逃げ込むことなく、直視しなくてはならない現実は、私たち人間が地球のあり方を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということだ」と切って捨てるところからスタートしている。
温厚な顔立ちからは、考えられないほど過激な物言いである。つまり、経済成長を求め続ける資本主義社会においては、決して温暖化や格差を阻止できないと言い切る考え方である。「人新世(ひとしんせい)」とは、地球史上で前例のない異常事態に突入したことを、地質年代になぞらえて言い表した造語であり、このまま地球温暖化をストップできなければ、地球は、「人類の住めない場所」になると警鐘を鳴らす。
補償や罰則というコロナ関連法改正といった小さい枠組みの議論ではなく、withコロナともいうべき時代の到来は、新たな社会システムへの転換という大変革への挑戦に結びつけなければならないのではないだろうか。