部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2022年7月26日
今年は、あらためて水平社創立から100年。沖縄の本土復帰50年の年でもある。
最近つくづく節目の年だと実感する。
それは、明治元年の1868年から数えて敗戦の1945年までの間が77年間にあたる。さらに、敗戦の1945年に77年をプラスすれば2022年。つまり今年にあたる。
明治から敗戦までの77年間。江戸幕藩体制から近代資本主義へと移行するわけではあるが、その間、幾度となく戦争に突入し、最終的には、広島と長崎、さらには沖縄戦による大惨事をもたらすという結果を招き、敗戦を迎えることとなる。
敗戦濃厚と言われた末期においても日本軍・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しが立たなくなった事態に至ってもなお、神風特攻隊など無謀とも言える戦闘を続け、被害の拡大という大失態につながるという痛苦の歴史を経験している。
だからこそ戦後は、国民を主権する憲法が制定され、国民が統治権を持つこととなり、国民に主権があるということは、その代弁者である国会議員が選ばれそこで法律を定め、権力を行使するものは、国民から権力行使をするように付託されることとなる。そこで、当然のように権力を行使する際には、“国民のために”行使しなければならないというのが、憲法解釈である。
なぜ、日本国憲法は、国民主権を採用したのか。君主主権ではだめなのか。
国民に主権があるとすることによって、権力を行使する者は、常に国民のことを意識し、国民のために権力行使をする必要があり、権力者が好き勝手に国民の権利自由を侵害することを許さない。当然、主権者である国民が、権力行使の「主体」にもなるということである。国民主権によって、権力の濫用が防止され、国民の自由が保障され、ひいては国民の基本的人権の保障、個人の尊重につながると言うことであり、戦前の教訓の上に現行憲法が存在することとなる。つまりは、幾多の戦争という痛苦の歴史を繰り返さないという不戦の誓いが憲法の持つ特筆すべき点であることは言うまでもない事実である。
敗戦からの77年がいま問われている。敗戦濃厚とわかりながら戦争を終えることができず、結果原爆が投下されるという大惨事を引き起こしてしまった。その時と同様の事態が2022年という今年、77年目の不思議として“悪夢よもう一度”といった時代背景にあるようでならないのである。
それこそが、現代社会における“善悪二元論”とも言うべき“分断”が闊歩するという時代という危機である。貧富の格差による分断や言論が虚しいほど無力化し、結果暴力的な威圧ある言葉によって分断が図られるという現代は、敗戦の1945年という時代に酷似してきているのではないだろうか。言論への信頼がこれほど軽く扱われ、国を分断するほどの意見の対立が、いとも簡単に多数だからこれが正しいと判断される昨今の政治の状況は、それこそ敗戦濃厚と言われながら戦争の惨禍に突き進んでいった歴史を繰り返しているように思えてならないのである。
あの痛ましい事件で亡くなった安倍元首相を国葬に付そうという閣議決定がなされ、国民の世論が二分しているにもかかわらず、政府は国葬に突き進んでいくようである。安倍氏の首相在任中の政治手法そのものが、一刀両断型であり、黙ってわたしに従うか、敵に回るかを選べと脅しつけるそれこそ分断方の政治家の本流とも言えるひとであり、国民の間で賛否をめぐって意見の対立が大きく存在している政治家である。
安倍氏は、自民党から政権を奪取し、3年余にわたって政権を担当した民主党が、国民の期待を裏切る形で政権を失ったことを「悪夢の民主党政権」と表現して「民主党に政権を担当させることの愚かさ」を強調した。また、集団的自衛権を容認する「解釈改憲」、安全保障法制、特定秘密保護法、共謀罪など、国論を二分するような問題でも、批判に対しては、国会での圧倒的多数を占めていることを最大限に活用し「政治権力」で押し切る、という方法を貫いた政治家ではなかったのか。こうしたひとを国葬に付すという判断は、ますます国民を分断させ、言葉による丁寧な説明を尽くして合意形成を図るという民主主義本来の主旨が棚上げされている判断ではないのだろうか。
むしろ、戦後政治の中で一種独特の政治手法を巧みに使い回しながら権力を保持した“安倍政治”の功罪を淡々と冷静に議論する中で送り出してあげるという方が、弔意を表すことだと思う。