Vol.265 「人権救済機関」の必要性を30年さかのぼって考える

30年程度をさかのぼって俯瞰して見てみるとまた新たな視点が浮き彫りとなってくるものである。

1969年から全国的に実施されてきた同和対策の特別の立法は33年間、名称が変更されたり、法律の期間が異なったりしてきたが、国の財政上の措置をともないながら継続実施されてきた。その法律が2002年に終焉を迎えた。その5年ほど前の1996年に「人権擁護施策推進法」という法律が制定され、当時その法律に基づき「人権擁護推進審議会」が設置されている。

この「人権擁護施策推進法」は5年間の時限立法で、その下で設置された「審議会」で議論がなされ、2001年には「人権救済制度の在り方について」が答申されている。この答申は、国内人権救済機関の必要性はもとより人権委員会設置に向けた検討など、総合的な人権救済機関をわが国においても積極的に整備していこうという答申であり、国際的な潮流に沿った議論が進められてきたところである。

この答申が出される15年前の1986年には、同和行政に絡んで地域改善対策協議会(以後、地対協という)から意見具申が出されており、「差別意識の解消に向けた教育及び啓発の推進」と「人権侵害による被害の救済等の対応の充実強化」が意見としてとりまとめられている。

つまりは、国による同和対策事業の終焉にともない同和地区に対する特別措置は終了するものの、部落差別の解消は実現していないとの認識から“差別意識の解消のための教育と啓発の充実”と“人権侵害による被害者の救済機関の必要性”について、早急に成し遂げられるべき課題であると意見具申しているのである。

こうした基本方向により、2002年には、「人権擁護法案」が閣議決定され、国会審議にまで委ねられたが廃案となり、2005年には、名称を「人権侵害救済法案」と変え提案されたが、それも実ることなく、2012年の民主党政権時には「人権委員会設置法案」が閣議決定されたが、時間切れ廃案となっている。“人権”と名のつく法案が、実は3度国会で審議されたものの結実する事なく、今日を迎えているのである。

同和対策事業を巡っての議論が、総合的な人権救済機関の必要性という議論を呼び起こし、地対協意見具申や「人権救済制度の在り方」の答申などへ引き継がれ、そして3度の国会審議による人権の法制度実現の議論へと発展してきた事をわたしたちは再確認する必要があるだろう。つまり、人権救済機関の必要性という議論は、同和行政改革の議論の発展途上から生まれた背景がある事を再認識することが重要である。

2012年の民主党による「人権委員会設置法案」提案の頃から、実は自民党内による人権政策の解釈を巡っての後退的な考え方が前面に押し出されてくるのである。当時の自民党の政権公約は、「民主党の『人権委員会設置法案』に断固反対。自民党は個別法によるきめ細かな人権救済を推進します」と路線変更がおこなわれ、以降の自民党の政策集では、「個別法によるきめ細かな人権救済の推進」と題して、「今後も、差別や虐待の被害者等人権を自ら守ることが困難な状況にある人々を個別法の充実により積極的かつきめ細かに救済します」との方針転換がおこなわれているのである。

30年近くを俯瞰して見ると1996年の人権擁護施策推進法の制定から「人権救済制度の在り方について」の答申が出され、人権委員会の設置と人権救済機関の必要性が求められたにも関わらず、現在は白紙に戻るどころか包括的な差別禁止や人権救済機関設置の法律の議論は、遅々として進んでいないのが現状である。「地対協」意見具申は、同和問題の早期解決に向けた今後の方策で、「特別対策から一般対策への移行」という方向を答申しており、この方策だけは、全国的に展開された結果、社会的格差と貧困という課題が被差別部落に引き込まれるという実態を生み、結果として生活困窮世帯が増え続け、差別と貧困という悪循環から抜け出す事ができない部落の現状がある。

見てきたとおり、人権委員会の設置と人権救済機関の必要性という議論は、最近登場してきた考え方ではないことはわかっていただけるだろう。30年近くの同和行政の行方を巡って登場してきた人権確立のための法制度である。この歴史的意義を再確認した上で、「人権の法制度」の実現を求めようではないか。