Vol.275 大阪の解放運動の“灯台“ 大賀正行さんを偲ぶ

ある集会で発言された女性が、隣保館は“灯台”の役割を果たさなければならないと挨拶されていたのが耳に残った。ひとの人生にその道だと灯りを照らし続けるのが、灯台の役割であり、それこそが隣保館であるという挨拶だった。

大阪における部落解放運動の“灯台”とも言える役割を長きにわたって務めてこられた大賀正行さんが4月15日に亡くなられた。86歳だった。大賀さん自身が、取り組んできた部落解放運動の歴史を3期に分類され、第1期は、糾弾闘争主導時代を位置付けられ、第2期を行政闘争主導時代、そして第3期共同闘争主導の時代であると戦後の部落解放運動を牽引してきた人物である。

とくに行政闘争主導の時代を「運動」と「事業」の分離をとなえ大阪における同促協方式を提唱し、推進してきた。部落解放運動は、行政への要求や交渉は行うが、勝ち得た成果は、民主的機能を持った同促協、いわゆる地区協議会が管理や運営、同和地区住民の自立と自覚を促す取り組みを推進し、同和地区全体が○○地区協議会として、いまでは法人格を持った地域組織として一定の役割を果たすまでに成長してきている人権協会も誕生している。

大阪の部落解放運動にとっても量的にも質的にも発展を遂げてきた時期に大賀さんが、その“灯台”の役割を果たし、わたしたちを導いてくれたことは、これから第4期の地域共生社会実現を掲げたわたしたち大阪府連の新たなチャレンジを空から見守って頂きたいと思っている。

しかし、日之出にはよく通わしてもらったものだ。19歳ぐらいから夜の9時過ぎに集合がかかり、当時は、日之出の解放会館か、青少年会館に集合し、12時近くまで、時には日が変わるまで中学や高校生の時に見たこともない(笑)社会科学の文庫をひらいて学習会が積み重ねられた。40年前として考えれば、当時大賀さん45歳ぐらいで、20代前半の若者を集めて学習会を月1ペースで実施してきたことを考えれば、そのバイタリティ溢れる行動には驚かされる。

大阪府連の歴史においても大賀さんは、まずは解放センター年明けの初出の日に職員全体の新年の集いで講演(1回目)、そして大阪府連の旗びらきで講演(2回目)、府連青年部の旗びらきで講演(3回目)、また別の活動家を集めた月例での講演(4回目)と毎年必ず4回から5回は今年の情勢と題して同じ内容の講演を受けたものだ。

いつからか、こうした講演は、府連書記長が担うという役割に変わっていき、府連の学習会や幹部合宿で必ず基調となる講演は、「大賀正行」という出番がなくなっていったのは一体いつ頃からなのだろうか。

府連の役員構成においても出来る限り若手の登用をめざされ各支部の役員についても若い世代や女性の登用を早い時期から提唱され、「責任ある役職につけば、そのひとも成長する」との信念のもと、大阪府連は全国から見ても比較的平均年齢が若いひとたちで構成されるその礎を築いたのも大賀さんの献身的な姿勢が生んだ賜物と言えよう。

運動と事業の分離という部落解放運動の理論的整理やあいつぐ国政選挙や自治体選挙闘争、若干の組織問題、さらには度重なる不祥事の発覚など、組織の肥大化ともいえる状態から発生した幾つかの矛盾や課題について、大賀さん自身が運動を振り返り、これで良かったのか、自分が指し示してきた運動論は正しかったのかと自戒の念を込めて振り返られていたことは、晩年わたしが知ることとなるとは、また皮肉なものでもある。

「住宅入りたければ解放同盟」「高校奨学金を受けたいのであれば支部入会」「保育所入りたければ同盟支部へ」という要求に駆りたてられたひとたちによって、解放同盟は膨張し、肥大化した一面は拭われない事実である。

しかし、その膨張したひとたちの中から数少ないが、活動家が育ち、各支部の役員として活躍している事実もまた然りである。来る者拒まずウエルカムで、引き受けてきた大阪の部落解放運動ならではの思想こそが、第4期と言われる地域共生社会として位置付き、この地域だからこそみんな寄り添い、支え合い、いのちと生活を守るための共生社会づくりの地域運動に大賀さんの思想と哲学は継承されていると確信して大賀さんに報告したいと思っている。

志半ばで逝かれた想いは、わたしたちが継承していくことを改めて誓いたいと思っている。安らかにお眠り下さい。