Vol.286 SOSを発せられる地域社会を被差別部落から

ちょっとパロディ的に「ドラえもん」の話をしよう!

「のび太」君の学校帰りによく見かけた「公園」とも「空き地」とも表現できる、いわゆる“遊び場”が記憶に蘇る方も多いだろう。

いまでは、土管が積み上がっている空き地は、「危ないから遊んではいけない」とついつい子どもの居場所を敬遠しがちな現代社会といったところか。

学校帰りにこの“空き地”に自然と集まり、「ジャイアン」や「スネ夫」、「しずか」ちゃんらがたわいもない遊びをはじめ、夕飯時まで時間が流れていく様子が、「ドラえもん」ではよく描かれているシーンである。

これが現代社会では、どう変化するか・・・「のび太」は、学校が終わるとそそくさと自宅へ、「しずか」ちゃんにLINEで連絡を取り合い、学校での出来事を報告し合い、それが終わるとテレビゲームに没頭し、時間が費やされるという一日か?

そもそもいじめっ子「ジャイアン」と遊ぶ事自体を避ける傾向にある「のび太」の対応は、スマホが存在しなかった時代は、子どもたちの居場所が“空き地”となり、「ジャイアン」との遭遇がイヤでも「しずか」や「スネ夫」と遊べることを優先し、それこそいろんなひとたちとの交流が実現し、いじめっ子「ジャイアン」とも友情が芽生えていくというストーリーである。

しかし、それが現代社会におきかえて「ジャイアン」との関わりを考えると、SNSの登場により、非対面でのコミュニケーションが可能となり、進んで連絡することも交流することもなく、それこそ一度も同じ遊び場で遊ぶこともなく、いじめっ子「ジャイアン」といじめられっ子「のび太」の関係が、薄っぺらいほとんど交流のない関係へと変貌を遂げてしまうのではないだろうか。

総務省が毎年実施している「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」で、「最も孤独を感じている世代は高齢者ではなく、20〜29歳世代である」との調査結果が新聞で紹介されていた。

これを子ども時代を“置き去り”にしてしまった若者が増えている、と大学教授がコメントされていた。

つまり、彼ら彼女らは子どもの時にするはずだった原体験をしないまま、そのまま大人になっていると分析している。大都市を中心に子どもたちにとっての“放課後の世界”が大きく変容していることが背景にあるといわれている。遊び空間が急激に減少したことやスマホの登場で、さまざまな出会いが一部に限定され、自分の手の届く範囲でしか選ばないように、知らず知らずのうちに孤独と孤立を身にまとった若者になっていくという孤独・孤立社会の果てだと警鐘が鳴らされている。

さまざまなひとたちと出会い、喋りやすいひともそうでないひとも、苦手なひとや距離を置きたいひとなど、あらゆる同じ世代のひとたちとのこうした交流や出会いが、他者との交流を通じて、表情や声色をうかがったり、自分の感情を言葉で表現したりすることができなくなっている時代に直面しているのではないだろうか。

子ども・若者にとっては、希望よりも無理やり押し出されるような、強いられた自立に対して、横を向いてしまうのだろう。友だちとのLINEが気になり、ごはん中もかたわらにスマホを待機させ、友だちからの連絡に即座に答えなければ自分の存在感を認めてもらうことができないと「わたしはあなたの隣にいつもいます」というような仮想的な空間でしか自分の存在を確認できない“わたし”に陥っているのだ。それだけ、現代社会はプレッシャーで子どもが押しつぶされそうになってきているという証左と言えよう。

バーチャルな空間も「ドラえもん」もわたしたち人類がつくりだしたものであり、その延長線上に孤独・孤立社会の果てがあってはならないことは言うまでもない。誰もが当事者になる可能性をもつ時代だらこそ、つくってしまったこの社会をもう一度変えなければならない。わたしたち人間社会は、ある意味で“迷惑の掛け合い”でなり立っている面がある。

生きづらさを自分だけのせいにして追い込まず、周囲のひとたちにSOSを発する地域社会こそが、被差別部落で発揮しなければならない真骨頂でもあるはずだ。持ちつ持たれつの関係性をさらに発展させ、「のび太」と「ジャイアン」とが親友となるような健全な社会の構築が急がれる。ともに奮闘しよう!