Vol.293 「情プラ法」と逆行するファクトチェックの廃止 

SNSの代表格であるフェイスブックなどを運営する米メタ社が、第三者機関による事実確認、ファクトチェックを段階的にアメリカで廃止すると発表した。代替機能を導入するものの偽情報などの増加につながる可能性があり、憂慮せざるを得ないとの批判も起こっている。

同社は、画像共有アプリのインスタグラムを含む傘下のサービスでファクトチェックを始め、問題があると判断した投稿に対して表示を制限するなどの対策を講じてきたが、マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者CEOは「政治的に偏り、信頼性を破壊した」として、いわゆる場の提供のみに特化し、差別や誹謗中傷を書き込んだ人間が、その責任をすべてとるべきであるという自己責任論にすべて集約すると方向に転換するというのである。

その背景にはトランプ次期米大統領をはじめとする保守派の批判が存在していると言われている。保守派はメタなど米テクノロジー大手にリベラルな思想を持つ社員が多く、偏向していると主張しているからだ。トランプ氏は政権復帰後に締め付けを強めると表明していたことを受けて、メタ社が先んじてファクトチェック廃止を先導しようとの目論見かと噂されている。

プラットフォーマー事業者は、あくまでユーザーに対して居場所を提供するだけで、個人間のやりとりは、自己責任であるという方向に舵を切ろうというのか。トランプ政権の誕生はますますその流れを加速される危険性がある。プラットフォーマー事業者は場の提供だけに留まり、人権侵害や誹謗中傷にはノータッチを決め込み、個人間のトラブルはすべて訴訟で解決を図れという責任逃れの対応が検討されているという。

エセ情報やフェイクニュース、さらにはファクトチェック廃止は、部落差別を先導する書き込みやヘイトスピーチといった有害情報をプラットフォーマー事業者は容認することとなり、そこには社会性や社会的責任や人権デューデリジェンスという考え方など、微塵もなく、あくまで利潤の追求のみに固執しようとするプラットフォーマー事業者が、日本においても同様の考え方を持ち込み、差別的書き込みや誹謗中傷などを書き込んだユーザーだけの責任だけが追求されるというネット社会にしてしまっては意味がない。

わが国日本においても昨年5月に「情報流通プラットフォーム対処法」が成立したばかりだ。この情プラ法を受けて「省令及びガイドラインに関する考え方」と題する案が示され、その案では、「特定電気通信によって情報を流通させ、又は、広告する行為が他人の権利を侵害する場合を対象とすることとし、対象となる権利・利益を例示列挙する」との考え方を示し、大規模プラットフォーマーへの適切な対処を求めるという内容となっている。つまり、削除するに該当する項目を総務省が列挙したというものである。

その項目に被差別部落という地域の識別情報の摘示によって、不当な差別を受け、人間としての尊厳が傷つけられ、平穏な生活を送ることができない不安感は、同時に人格的な利益をも侵害される行為であることから、削除の対象として盛り込むようプラットフォーマーに義務づけるとまで呼びかけられているのである。

「情プラ法」という法律が制定され、その法に基づく政省令がまとめられようとしており、そこに裁判で記された“差別されない権利”という判決内容がガイドラインとして適用されようとてしている状況にあるとき、SNS社会をリードするアメリカが、“ファクトチェック廃止”では時代への逆行そのものであり、「情プラ法」そのものの運用にもイエローカードが掲げられる危険性が差し迫ってきていることとなる。つまり、今後の日本のSNS社会の進路にとってもきわめて重要な“ファクトチェック廃止”という問題である。

むしろ真偽不明の情報やまったくのデタラメな情報、ひとを落とし込めるためだけのエセ情報など、今後ますます専門家によるファクトチェックを高度化し、透明性の高い機能と組み合わせて社会的信頼と責任を果たすことが、大規模プラットフォーマーに求められている課題のはずである。

トランプ再登場という事態にメタ社がご機嫌取りのひとつの対応として方針転換したのか。それともアメリカの分断は深刻で、人権侵害や誹謗中傷とプラットフォーマー事業者が簡単に判断できないほど、対立は激化しており、自己責任だけが問われる社会へと変貌しているのか。前者を信じたいが、どうも世界は分断と対立を強めているようである。