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コラム | 2013年8月6日
宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を観た。
作品は戦前、三菱内燃機(現三菱重工業)に勤務し、戦闘機を設計していた堀越二郎の生涯がテーマだ。
飛行機乗りに憧れていた少年が大人へと成長し、飛行機の仕事に就こうとした時、戦争の時代が始まる。その時代に製作したのが戦闘機。美しいものを作ろうとした結果、それが兵器となり、人の命を奪ってしまうという葛藤を描き、堀辰雄の『風立ちぬ』の恋物語を絡ませているという映画だ。
時代に呑み込まれるように零戦を設計していく「堀越二郎」は、少年時代“空” に憧れ、飛行機乗りをめざしていた少年が大人になり、飛行機の仕事に携わろうと思った時に戦争の時代が訪れる。そうした時代に彼がつくりあげたものが艦上戦闘機(零戦)だったという物語である。
前々から読もうと思っていた小説があった。それを家で娘に話すと、「それやったらお姉ちゃんがもってる」と教えてもらい借りることにした。その小説のタイトルが、『永遠の0(ゼロ)』、作家は百田尚樹さんだ。次の日に東京へ日帰り出張ということもあり、往復の新幹線で夢中となり、むさぼるように読みふけった。
注目のベストセラーとはいえ、遅れて読むこととなったが、映画『風立ちぬ』と小説『永遠の0(ゼロ)』がわたしの中ではそれが見事ひとつにつながり、見事調和されていくこととなった。
小説『永遠の0(ゼロ)』は、日本軍敗色濃厚の中、仲間から「卑怯(ひきょう)者」「臆病者」とさげすまれた零戦パイロット-宮部久蔵の姿を描く。孫らは、祖父のことを調べ始めるが、元戦友たちの証言から次々と浮かび上がってきた祖父は、すご腕を持ちながら、同時に異常なまでに死を恐れ、生きることに執着する戦闘機乗りだった。祖父は何故特攻を志願したのか。という内容だ。
映画『風立ちぬ』は、当時才能のある若者として登場した堀越二郎が、軍事目的に利用されるとわかりながら究極の曲線-映画では鯖(サバ)の骨を見て、その形の美しさに感心する場面が-「機能美の極みをめざした飛行機を作りあげる」というのが設計者本人の夢として描かれ、もくもくと仕事に没頭する姿が映し出されている。
一方、『永遠の0(ゼロ)』にこんな場面が登場する。
「零戦はご存じの通り、非常に曲線が多い飛行機です。外側だけでなく内部の構造も曲線が多い作りなっています。」(中略)「知りませんでした。零戦はそうした名人が作っていたのですね。なるほど、言われてみれば、零戦は美しい戦闘機ですね。」とのやりとりが紹介されている。
出来る限り軽量化し、凹凸ではなく、究極の曲線をめざすことで空気抵抗を最小限に抑え込むという堀越二郎さんが描いた設計図も映画では紹介されており、そのあまりの精密な戦闘機-零戦をつくりあげたことが、戦争終盤になり、腕の良い職工が次々戦場に送り出されることとなり、零戦の質が低下していくという皮肉な結果が、“映画”と“小説”で交差している。
もう一カ所、優れた戦闘機-零戦を作ってしまったことにより、航続距離が8時間以上というきわめて長距離を飛ぶことを可能とした。『永遠の0(ゼロ)』では、そのことが次のように描かれている。「広い太平洋で、どこまでもいつまでも跳び続けることが出来る零戦は本当に素晴らしい。自分自身、空母に乗っている時は、まさに千里を走る名馬に乗っているような心強さを感じていた。」
当時、戦争に突き進んでいくという時に、いままでの常識をはるかに超える零戦の登場が、最終的には、皮肉にも特攻(「特別攻撃」の略-主に航空機などによる体当たりで行った自爆攻撃のこと)へとつながっていく。当時、「神風」ともいわれ、英語でも”KAMIKAZE”とそのまま使われている。
小説『永遠の0(ゼロ)』では、それを「十死零生(じゅっしれいしょう)」という言葉を使っている。最初から「生き残る」と言う選択肢が無い。まさに「九死に一生」も無く、「零生」。すなわち、「生き残る可能性・ゼロ」の意味として使われている。
映画『風立ちぬ』は、「美しい飛行機を作りたい」という夢を追い続けた青年が、その夢の結晶ともいうべき零戦を誕生させる「風立ちぬ」。その零戦に乗って戦い、終戦直前に特攻として死んでいった人物のことが語られるのが小説『永遠の0(ゼロ)』。
『永遠の0(ゼロ)』の主人公・零戦パイロット-宮部久蔵が、零戦の素晴らしさを称えながらも、機能が優れ素晴らしければ素晴らしいほど、その零戦を操縦し、いざ戦地に出撃するパイロットは過酷な状況に置かれるという皮肉な結果が交差する。零戦を設計した堀越は、「終わりはズタズタでした」と語る場面が終盤に映し出される。“鯖(サバ)の骨”という究極の曲線をめざし、徹底した軽量化と空気抵抗を抑え込むことに苦辛し、完成したのが零戦である。あまりにも素晴らしい戦闘機故に最終的には人間爆弾として捨て身による体当たり、自爆攻撃として最悪の零戦へと変貌していく。全く異なる二つの作品がわたしの中で重なっていく。
ちなみに原稿を書いている今日という日が8月6日だったことを付しておきたい。