生きるに値するムラ(部落)に

水平時評 府連書記長 赤井隆史

大人から子どもまで親しまれたアニメ映画を世に出し続けてきた、スタジオジブリの宮崎駿(はやお)監督が、正式に引退を表明した。東京で開かれた会見で「今回は本気です」とユーモアたっぷりに語る宮崎監督から次のような言葉が発せられた。

「子どもたちに、この世は生きるに値するんだと伝えるのが仕事の根幹になければいけないと思ってやってきた。それは今も変わっていません」。

宮崎監督がつくりだしてきた様々なアニメ映画には、この思想が一貫しているとの思いを強くした。翻って、わたしたちが取り組む部落解放運動が「この世は生きるに値する」というメッセージを発し続ける運動になっているのだろうかとも考えた。

全国の被差別部落から、「若い者がムラ(部落)を出て、年寄りしか残っていない」、「うちの支部の執行委員の平均年齢は70代を超えている」といった声が聞かれる。お年寄りが多く、若者が少ないからダメだといっているわけではない。現実に多くの若者たちがムラ(部落)を巣立つ理由もそれぞれ多岐にわたっているだろう。

「結婚しても住むところがない」、「近くに仕事がない」ということなのかもしれない。しかし、「生まれ育ったこのムラ(部落)が、これからの人生、生きるに値する」のか、“夢や希望”をもちつづけられる「街(まち)」として活気を取り戻し、ひとびとが活き活きと暮らし続けることができる街に変貌を遂げることが出来るのか。「ムラ(部落)は生きるに値しない地域」になってしまっていないか、「これで良いのか?」と問い続けることが必要だ。

昨年、筆者の中学時代の同窓会がひらかれた。筆者の育った西成地区の中学校は、全生徒が同和地区内の居住者で、いわゆる「100%の同和推進校」である。80人以上が集まったが、現在、西成の地区内に住んでいる人は、たぶん1割にも満たない数字だと思う。

現在の年齢は51歳。同窓生の男性がわたしに、「上の娘が結婚を意識してるらしい。俺の生まれ育ちを娘にいうべきだろうか」との相談があった。その男性は結婚前に西成地区内を離れている。親も亡くなり、西成区に親戚はいない。お酒が入っていたこともあって、わたしは、「これを機会におおいに悩めばいいのでは」とアドバイスした。

娘さんが成人を超え結婚する年齢まで、「被差別部落の出身である」ことを言わなかったその男性が「カミングアウトする必要」があるのか。正直、西成地区出身であることを娘に一大決心のように語るべきだとは思わなかった。 結婚する相手方も含めなんらかの理由で、娘の父親の出自がわかるような事態になったときにはっきりと言うべきではないかと、アドバイスさせてもらった。

胸を張って“ふるさと”を名乗れない部落差別という現実がといまも深刻に横たわっている。同級生の多くが、被差別部落である西成地区を離れ、子どもの結婚などで、いわゆる出自に悩み、葛藤している現実がある。

様々な葛藤に揺れ動いている部落を離れた人たちに、「このムラ(部落)は生きるに値する街であり、そうあり続けるためにわたしたちは頑張っているのだ。いつでもあなたたちを歓迎して迎えたい」と胸を張れる部落解放運動でありたいと思っている。

大阪のある部落では、昭和40年代前半から公営住宅を建設し、街づくりに奔走してきた。しかし、公営住宅中心の街づくりが今、高齢化に拍車をかけ、比較的安定した収入層の世代が部落を離れるという結果となり、少子高齢が顕著になっている。

そのことを反省し、当該市との協議を重ね、公営住宅の建て替えの際、公営住宅の建設戸数を大幅に減らし、そこで生まれた余剰地に戸建ての住宅を建設するという手法を検討し、これから実践に入っていくと聞いている。そのコンセプトは、「ムラ(部落)を出て行った人々が安心して戻ってこれる“街”に」だ。

「子どもたちに、このムラ(部落)は生きるに値するんだと伝える」ことを、これからの部落解放運動の根幹にしなければならないと感じている。