部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2015年11月18日
終盤も終盤。ダブル選挙は最終の段階に突入した。
選挙戦がスタートした当初は、「自民VS維新」という構図であったのが、ここに来てようやく、「自民VS反維新・非橋下」という新たな対決構図の段階に突入してきている。
橋下氏は絶叫する。「自民党、民主党、共産党が束になってかかってきている」「こうした政党の既得権益を復活させるのか」と嘯(うそぶ)いている。
府連が取り組んでいる桃太郎やポスティング、街頭宣伝などの政治活動においても、「共産党から応援をもらっているくりはら、柳本は応援しない!」と道行く人が吐き捨てるように過ぎ去っていく光景を目のあたりにする。
自民、民主、共産、そこに公明が相乗りするダブル選挙を野合と揶揄する維新支持の批判勢力が一部に存在する。
ダブル選挙を闘う政党の枠組みが問題ではない。だれを応援するかが今回の選挙の争点ではない。今回のダブル選挙は、“民主主義とは何か”が問われている選挙だ。だからこそ、“反維新・非橋下”を貫くことである。
戦争法案反対で、国会前の反対デモやアピールに取り組んだ学生運動SEALDs(シールズ)のリーダーのひとり奥田愛基君は次のように言う。「国会前に民主主義がある感覚なんですよね。民主主義がもはや国会の中じゃなくて、国会前にある感じになってる。あそこにおさまりきらない場になっているのがおもしろい」と。
自らの権力の行使をその代表者である国会議員に信託することで、間接的に政治に参加しその意思を反映させる政治制度が議会制民主主義である。その議会制民主主義が国会を飛び出し、SEALDs達が取り組む国会周辺のデモやアピールに民主主義が集まってきていると実感しているのである。
つまり、民主主義はヒトから与えられるものではなく、自分達で創りあげるものだとの臨場感ある発言は、“選挙を通じて民意を問う”、今回のダブル選挙の意義とも合致している。
国会前の戦争法案反対のデモやアピールが、「社会を変えたのか?」。決してそうではないようだ。「社会の変化がデモに表れた」と捉えるべきだ。だとすれば、5・17の大阪市の住民投票は、民主主義の大きなうねりであり、社会の変化が、大阪市廃止にNOを突きつけたことにある。
「いま一度府民・大阪市民は自問する機会を得たと思う。維新による政権。つまりは、大阪府政、大阪市政を誕生させることは、民主主義を選択したことにはならないと」、「なぜなら松井や吉村を首長に誕生させたところで、バックに橋下氏が君臨し、手取り足取り指示する傀儡政権が民主主義と言えるのか」ということである。
社会を根っこから変える政治とは、決して上からの改革ではない。正しいからと反対派を退け、弱いからとたたきのめす政治は、民主主義社会には通用しない概念である。“反維新・非橋下”を貫かないと大阪における民主主義は崩れ、独裁による政治が跋扈(ばっこ)するという危険な方向に向かわさないという良心が、各政党やさまざまな団体の“共通語”として、「維新VS反維新・非橋下」として結束しつつある状況に発展してきているのである。
今回の大阪ダブル選挙において、橋下氏を政治の世界から退場してもらうチャンスであることを再度訴える。退場させないと橋下氏が自分自身をコントロールできないほど肥大化し、絶大な権力を握ることになる。彼にとっても不幸である。ひとつのルールを決めるのに、合意形成するためには、多少の意見の食い違いを超え、時間をかけて丁寧に説明し、合意を形成していくプロセスが、民主主義である。橋下氏は性急であり、乱暴だ。もう一度、合意形成に「対話」と「協調」を取り入れる政治を取り戻すのが、今回のダブル選挙だ。知事選、大阪市長選ともに激戦だ。クリハラ候補、柳本候補の必勝に向け、最後の奮闘を訴える。