部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2015年12月11日
浅香支部顧問 山本義彦さんが逝った。
あとわずかで70歳を迎えようとしていたのに旅立ってしまった。
やり残したこと多々あるだろう・・・悔いが残るだろう。それは無念であろうと思う。
しかし、ひたすら走り続けてきた70年。ここは少しゆっくり腰を下ろしてあっちの世界で静養してほしいと思う。
どれぐらいおつき合いさせてもらったのだろうか・・・はじめて顔を合わせたのは、府連の網の目行動1983年だったと記憶している。わたしも20歳で、青年部活動の門をくぐったばかりの時でもある。あれから33年が過ぎ去った。
府連を本部派と称するなら、文字通り浅香支部は野党であり、反主流派。しかもその代表格が山本義彦さんだったことを今も鮮明に記憶している。
部落解放運動における路線対立、考え方の違いなど、運動の高揚期ゆえに起こった面もあったことは否めない事実であるが、今となっては、対立するほど元気な部落解放運動だったんだと懐かしく当時をふり返って、義彦さんと酒を酌み交わしたいと思う。献杯だ。
「赤井君。最後まで行ききったらあかん」「許すのも運動や」「若いときは、あかんかった。利権はどうしても許されへんかった」「こんなたいへんなときに運動が分裂しててどうする」「割ったらあかん。対立したらあかん」-何度も聞いた義彦さんの言葉である。
「?」-疑問符(ぎもんふ)クエスチョンマークを、義彦さんは、それをクエッチョン♪クエッチョン♪と発音する。ユニークで顔に似合わぬ(?)お茶目なところがまた受ける。
なにせ、フットワークの軽い人だ。沖縄や北海道・・・中国、元気なときは、それこそ浅香を飛び出し、全国はもとより、アジアや全世界を駆け回っていた。また、特技かも知れないが、その先々で友達をつくっては、自分の財産にしておられた。ヒトと会話をあわすのではなく、自分の輪に一気に引き込み相手を魅了してしまう義彦さんの“得意技”と言ったら失礼か・・・。
その“得意技”に引き込まれたひとりでもある。本当に亡くなったのか・・・携帯にメールが送られてこないか・・・いまも待っている。「書記長、忙しいやろ。無理したらあかんで・・・」。会うたびに声をかけていただいた。
わたしは、1998年5月福岡で開催された第55回部落解放同盟の全国大会で、当時大阪府連を代表して全体発言をさせてもらう機会に恵まれた。その発言の中で、故上杉委員長三回忌の年にあたり、支部自慢、ムラ自慢の運動をつくりあげようと提案した。そして、浅香のまちづくりの運動を紹介し、地下鉄車庫跡地の利用をめぐって、「人間の街にしていこう」と跡地まつりのイベントを紹介し、地区内外のこうした交流がぬくもりのある街・浅香に吹き込まれていると発言した。さらに、この数年間、浅香地区内では差別的な落書きが一切なく、それが支部自慢だと紹介させてもらった。
後に知った話しではあるが、イベントだけではなく、浅香支部では役員さんが意識的に地域振興町会や民生委員、保護司など、本当に大変な役割を担うことによって、地域周辺との信頼関係を築き上げてきたのであり、7月に亡くなられた故山本幹夫さんは、それこそ町会の役員として日々奮闘されていた情景が思い浮かぶ。
これからが、部落解放運動正念場である。「腕まくりしてガンバらなぁ!」「先輩の財産を今度は、自分たちの手で創りあげるべき時代が来た。」ともう一踏ん張り。義彦さんに背中を押されているようだ。
「いまの大阪の部落解放運動・・・クエッチョン♪やなぁ」って、義彦さん、ぼやいてるに違いないと思っている。任してください。精一杯頑張ってみます。合掌。