「希望」の受け皿の役割を担うためには 全水100年に向けて

水平時評 府連書記長 赤井隆史

 エコノミストの浜 矩子(はま のりこ)同志社大学大学院教授が、2月28日の東京新聞に、以下のようなコラムを掲載していた。

テーマはアメリカの大統領選挙で「ややこしいことに、どうも、民主党側でサンダース氏を支持している人々と、共和党側でトランプ人気を盛り上げている人々が、かなり似通っているらしい。いずれの候補も、弱者たちの人気を博しているようなのである」と解説している。つまり、思想的には、左右に大きく考え方が違うにもかかわらず、社会的弱者であるという点は一致しているというのだ。それを謎説くキーワードが、「絶望」だと説明している。

「『絶望がもたらす希望』と『絶望がもたらす幻想』が人々を二分している。これが今のアメリカなのではないか。絶望がもたらす希望が、サンダース氏に託されている。絶望がもたらす幻想が、人々をトランプ氏に引き寄せている」というのである。

「1%の金持ちどものおかげで、我々は99%の貧困層と化すことを強いられている。この絶望的な怒りが、サンダース氏の格差解消のメッセージの中に、希望の灯を見いだした。自分の将来について、絶望せざるを得ない若者たちが、サンダース氏が掲げる分配と優しさの経済学に希望を委ねる。対するトランプ氏は、成長と強さの経済学を押し出している。このイメージが、絶望がもたらす幻想の苗床となる。アメリカをもう一度最強にする。アメリカン・ドリーム再び。この威勢のいい掛け声が、人々を甘い香りの幻想へと誘う」と綴られている。

現在の部落解放運動は、果たして「絶望がもたらす希望」の“光”の役割を担っているのだろうか。ともすれば「絶望がもたらす幻想」に陥ってはいないかと思ってしまう。

人々を鼓舞するスローガンを大きな声で叫び、威勢の良い演説で、「差別許さず、団結の強化を」と訴える。しかし、それだけで社会的排除や貧困という被差別部落を覆っている社会的課題に対峙しているといえるのだろうか。人々を鼓舞し、運動への高揚を呼びかけることは重要であり、否定するものではないが、希望の見えるポジティブな人権政策を、サンダースのように信念を持って訴え続けているのだろうか。

わたしたちの先達は、部落差別に抗い、人の世に熱と光を求めた。エタである事を誇りうるという運動を提唱し、多くの被差別部落大衆は希望の灯を見いだした。現代の部落解放運動にこうした希望を委ねることが出来ているのであろうか。

安倍首相のいう「強い日本を取り戻す」という強気の発言が何とかしてくれるかもしれないと疲れた人々を鼓舞するカンフル剤の役割を果たしていると捉えるべきではないだろうか。大臣の辞任や問題発言があってもさほど支持率が下がらない理由も、こうした事が背景となっているのであろう。

大阪においても大阪維新への期待度は変わることなく、高い支持率を誇っている。橋下氏が代表を降りてもなお高い支持率を誇る背景には、あの強気のケンカ作法による、白か黒か、賛成か反対かという強い政治スタイルが、有権者にわかりやすい政治として脚光を浴びている事も同様である。

「絶望がもたらす希望」と「絶望がもたらす幻想」のどちらに軍配が上がるのか。“希望”の受け皿の役割を部落解放同盟が担おうとするのであれば、それこそ2022年という水平社100年という節目に向け、日本における被差別部落のまちづくりビジョンと、社会における「部落差別」克服へ向けた明確な考え方を示し、それを世に問うべき時が到来しているのだと思う。組織のありよう、名称の変更なども視野に入れた議論が求められる事は言うまでもない。

若者と女性、社会的弱者から一筋の希望としてキラリと光る部落解放運動だと、少しでも期待されるようになるために残された時間はそれほど多くはない。