部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2016年5月12日
「子どもの貧困」って、当然「親も貧困」って事でしょう?
ことさらに、なぜ、“子どもの貧困”を強調する必要があるの・・・?
まったく素朴な疑問である。
子どもは家族の構成員であり家族のなかで育まれることから、親が貧困であれば、当然その子どもも貧困であるとは、もっともらしい説明である。
通常家族を連想したときには、同じところで暮らし、同じ家計という世帯単位として一体的に捉えることが一般的であることから、「子どもの貧困」は「親の貧困」であると理解されることが常である。
しかし、「親の貧困」に対して、「世の中には、親が貧困であっても、子ども自身が必死になって勉強し奨学金などを利用しながら高校や大学に進学し、就職して優雅な生活を送っている人もいる」と解説する人もおり、貧困から抜け出すためには本人の努力が第一義であり、結果は自己責任であると主張する人も少なくない。
つまり、「親の貧困」はイコール“子どもの貧困”という単純な捉え方ではなく、子どもに現れている貧困の状況は、決して親の貧困のみにその原因があるということではないと考えるべきだと主張したい。
貧困により子どもが被る悪影響は、たんに金銭的に困っているという経済的な不利益のみではない。親とのコミュニケーションの機会がほとんどない子どもたちや、居住水準のスペースがないため自分の時間や空間が確保されていない実態に加えて、幼少の頃から、コンビニと電子レンジのみの食生活のため、焼き魚や煮物の食べ方を知らない子どもたちや、温泉や銭湯に入った経験がなくシャワーのみの生活で過ごしているケースなど少なくないという現状だそうだ。
親の虐待、さらには、性的虐待などによって、もっと深刻に子どもの成長過程において、計り知れない不利益をおよぼしていることは想像に難くない。
つまりは、「子どもの貧困」は、「親の貧困」とは異なっており、子ども自身の責任で解決できるような問題ではなく、取り返すことができないほどの社会的不利益による暴力的な剥奪が生じているといっても過言ではない現状にある。子どもを権利の主体として捉え直すことこそが、「子どもの貧困」問題の本質である。
このような現状を見てみると、子どもが社会の犠牲になっていることが伺える訳であり、こうした社会の歪みが、子どもに大きくのしかかり、格差の拡大、貧困問題は限界を大きく超えつつあるように見える。
幼少時代に、「子どもの貧困」を体験し、その中にあっても努力して奨学金でなんとか高校と大学に進学、しかし、その若者を現在苦しめているのが、「奨学金地獄」である。有利子の奨学金に頼らざるを得ない学生は、大学卒業時には、600万円近い借金を背負うケースも少なくないらしい。22歳・23歳で社会に出たとき、600万円もの借金を背負うのは大変なことだ。毎月3万〜4万円の返済を、20年〜30年も続けなければならない。しかも非正規雇用なら完済するのは困難であることを容易に理解できる。現在、非正規雇用は4割近いだけに深刻な実態だ。実際、大学に進学し、奨学金を借りたために生活困窮者に陥るという事例は決して珍しくない。
「子どもの貧困」が、10代後半から20代にかけて「若者の貧困」へと世代間連鎖し、ひいては、「大人の貧困」へと引き継がれる。“貧困の世代間連鎖”こそ断ち切らなくてはならない課題である。
わたしたちは、「子どもが犠牲になる社会に未来はない。」ことを肝に銘じようではないか。