Vol.96 「分断社会」を終わらせる実践を

「2025年」問題というのが、ささやかれはじめている。

2025年は、いわゆる団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年だ。日本は急速な高齢化社会へと突き進み、4人に1人が75歳以上という超高齢社会の到来が予測されている。これまで国を支えてきた団塊の世代が給付を受ける側に回るため、医療、介護、福祉サービスへの需要が高まり、社会保障・財政のバランスが崩れる、とも指摘されており、それを総じて「2025年」問題と称しているようである。

日本は全体として、目に見えて貧困が加速していると言われている。専業主婦世帯が減り、共働き世帯が増えているにもかかわらず、世帯所得はピーク時より2割落ち込んでいる。この10年で世帯年収として平均100万円以上減少しているとさえ言われている。

反対に、年収200万円以下の世帯は全体の2割に達し、非正規の割合も4割を超えた。

こうした状況は、結婚して子どもを持つことすら難しいと言う問題に直面することとなり、頼りの中間層が明らかに疲弊し、低所得層化しつつあることを意味している。こうした中間層の人たちは、不安におびえつつも自らは頑張って働いているのに、一方では、低所得者層や生活保護の受給者などに対して、働いてもいない人々を税金で支援することに違和感を覚え、厳しく批判するという分断社会の傾向を強めている。

日本の社会保障は高齢者に手厚く、あとは限られた資源を貧困対策に使うので、恩恵を受けない若者と高齢者の対立も深まり、ここでも分断社会がますます深刻化し危険水域に突入することとなるだろう。

こうした分断社会を断ち切るためには、所得が落ちても、せめて人間らしく生活ができるように、また、誰にとっても必要なものを保障する仕組みをつくることが重要だといえる。それこそ前回の水平時評でも指摘したように、水平社が求めた水平社会実現のためには、水平線の下の人々を平行な線まで押し上げていくこと。そのためには、水平線の上の人々が平行な所にまで押し下がってきて水平を保つという解放運動、社会運動をつくりあげることが、分断社会からの脱却につながる唯一の方法だと言えるのではないだろうか。

「みんなで希望と痛みを分かち合う社会へ」「お金でにんげんを区別する社会を終わらせるために」。まずは、大阪の被差別部落の各地からその実践が求められていると言えるだろう。

個別的な個人的な利益ではなく、みんなが必要なものは、みんなに出す。教育がいらない人など存在しないのである。老後に認知症になったり、寝たきりになったりする可能性は誰にでも起こりうる可能性を持つ。医療だって、死ぬまで病気にかからない人などいないだろう。みんなが必要なものは、みんなに出すということが分断を阻止する一番良い方法だ。それを行政に求めて実現させていく施策と、自分たちのつながりでつくりあげる共済メニューとの合わせ技で、希望と痛みを分かち合う地域社会に、大阪の被差別部落が名乗りを上げようという運動方針が、「一支部、一社会的起業」というスローガンの主旨である。

貧困と格差が大手を振って社会を支配しようとしている。他者への寛容さが社会からどんどん失われている現実が目を覆う。弱者救済に多額の税金を投入すれば、中流階級が悲鳴を上げて批判し、「苦しいのはあいつらだけではない」と罵倒する。それが、差別発言や人権侵害にまで悪質化し、陰湿な差別事件が後を絶たない状況だ。

格差の広がりが、人々の関係にまで分断を持ち込み未来への希望など、皆無に等しい社会の現状だ。ジャーナリストの安田浩一さんは、毎日新聞のインタビューで、「差別は許さず、人を傷つけずに大切にする。これまでの社会で当たり前だったことがきしみ、差別が娯楽のように常態化し、批判も警戒感も薄れている。これは社会が壊れつつあることを意味します。僕は革命家じゃない。だから社会を壊したくない、守りたいんです。僕は一記者に過ぎないけど、社会を保守したいからこそ『差別は許さない』と書くんです」と指摘している。

分断社会を終わらせる。その実践を部落からスタートさせようではないか。