部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2018年9月26日
「ネトウヨ」や「排外主義」という言葉が飛び交っている。こうした主張を総じて保守と表現しているケースは少なくない。しかし、本来の保守という概念とは、大きな隔たりがありそうだ。
そもそも保守という概念の誕生は、フランス革命を契機に発生した政治概念だと言われている。フランス革命における急進過激な変革に対して、一定の是正を求める考え方で、その社会で伝統的に累積されてきた社会的・政治的・宗教的な秩序などを重視する立場から“保守”という概念が発生したと言われている。
さらには、人間とは不完全な存在であると考え、そのために歴史的な伝統の尊重が必要だと考える思想であり、まさに謙虚な人間観がその根底を支えているという政治概念だ。
すべての人間は不完全なものであり、どんな政治家が、どんなより良い政治を進めようとしても、完璧な政治が行われることはあり得ず、常に政治は、社会は未完成であり、不完全なものとして捉える考え方が保守であり、その謙虚な政治姿勢そのものが“保守”の基本の考え方だそうである。
そもそもそういう概念が保守と捉えるならば、穏健保守という言葉そのものが成り立たないことになる。保守がもともと穏健なものでなければならないとすれば、反対意見を封殺し、その他の意見は聞き入れない、さらには、自分が正しいと思い込んだ道を邁進するという政治姿勢は、レイシズムや排外主義、ポピュリズムと表現すべき政治概念だと言わざるを得ないのではないだろうか。皮肉にも現在の安倍政権そのものを表していることなのかもしれない。
自民党・杉田水脈議員の「生産性」がない発言が物議を醸している。それを擁護するように新潮社の月刊誌「新潮45」が「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題して特集したものだから猛批判だ。
新潮社内からもSNSを通じて「新潮45」の企画に否定的な見解が示されるという異例な事態となり、世間の猛烈な批判を受けた新潮社は、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」などと、佐藤隆信社長名の異例のコメントを発表、とうとう休刊という事態にいたった。
なぜ、これほど世間から批判を浴び、議員辞職さえ迫られようとしている杉田議員を擁護するのか。それは、「ここ数年、部数低迷に直面」しているからだと新潮社は説明している。つまり、世の中に差別や排外主義を支持する勢力がある以上、発行すれば少しは売れるという新潮社の利害のみが優先された結果なのだ。こんな稚拙(ちせつ)な考え方で世に対して責任を全うしているといえるのであろうか。
日本書籍出版協会は、「出版活動の根幹である『出版・表現・言論の自由』はなにものにも代えがたいものであり、私たち出版人が自ら出版物を線引きするようなことは何であれ、してはいけないことです。出版物を規制するような立法の動きには断固反対していきますが、その一方で、厳しく我が身を律し、自主規制を進めていかなければ社会の理解を得ることはできません」と訴えている。
差別であろうが、競争を煽ることであろうが、誰かを排除することであろうが、それを無節操に受け入れ、自分の利になると判断すれば、きわめて安易にとびついてしまうという傾向が端的に表れている昨今である。
大阪における維新政治も同様である。安倍政権にすり寄りながらではあるが、IR法成立を受けて大阪への誘致を本格化させ、11月の大阪での万博招致に奔走している。ギャンブル依存や犯罪をも増やす可能性のあるカジノ誘致であり、万博についても箱モノ行政そのものであり、後始末も含め大阪経済にとって有意義かどうかはきわめて不透明な事業である。
しかし、低迷する大阪経済の中で、苦しんでいる市民からすれば、それがわずかな希望となっており、各地の選挙において大阪維新の会が相変わらず根強い支持を獲得している背景の最大の要因ではないだろうか。
100点満点の政治はあり得ない。しかし、55点だと評価される政治はあり得る話だと思う。わたしたちの誤解は、100点をめざして政治や市民活動にとりくんでいるからではないだろうか。満点の市民運動などあり得るわけがないのだ。
もっとわかりやすいきわめて単純な言葉での、政策立案が求められているのに、難しい御託を並べ、所詮生活に困らない層からの発信にしか聞こえていないから世の中を変えるほどの迫力にならないのだ。悲観しすぎても仕方ないが、もっと楽観的に政策を提案し、実践する。議論しすぎで疲れて眠ってしまっては、なにも世の中に提案したことにはならない。どんどんどんどんアイデアを出し合おうではないか。