部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2018年10月26日
沖縄県の知事選挙で玉城デニー氏を支えた「オール沖縄」が自公一体の選挙協力態勢を打ち破って玉城氏が当選を果たした。最近めずらしい朗報だ。
これで、全国の来年4月の統一自治体選挙や夏の参議院選挙に弾みがつくと期待している人も少なくないだろう。しかし、率直に言って、基地問題を抱える沖縄という土壌とそれ以外の地域では、少し政治に対するスタンスに違いがあるように思うのだ。それは、最近沖縄に足を運んだことが原因かもしれないが、若い人たちの政治への関心の高さに驚かされた。那覇市内でもまちのあちこちで政治談義が持ち上がり、「基地をある程度は受け入れて経済優先の沖縄にすべきだ」と主張する若者もいたり、「沖縄にだけ米軍の基地を押しつける日本政府、明確な沖縄差別だ」と訴える声も聞こえ、沖縄以外の地域では聞くことのない若者の政治への関心の高さが、「イデオロギーより、アイデンティティー」といった沖縄独特の政治風土を創りあげ、日本の中央・東京に対する反発もあって、結局は、基地問題に一貫して反対の態度をとり続けた玉城デニーさんの勝利を呼び込んだのではないだろうか。
こうした現状を見たとき、オール野党体制を形成すれば、簡単に自公政権に鉄槌を食らわすことが出来ると考えるのは安易に思えてならないのである。日本の全体の政治情勢がどう統一自治体選挙や参議院選挙に影響を与えるかはきわめて大きな話ではあるが、むしろ有権者や市民が求める政治への期待は、もっと身近で生活感覚溢れる話題ではないのか思うのである。憲法へのスタンスも原発への態度も重要な選択肢のひとつではあるが、とくに統一自治体選挙は、もっと地域に根ざした課題が争点にあって、それを日常的にとりくんでいる候補者が多くの支持を集めるのではないか、またそんな選挙にしなければ立憲を含めたリベラル勢力の勝利はないような気がしてならないのである。
財源問題についても困窮する地方自治体の予算配分について、「これ以上の生活保護費の拡大は市民生活を脅かす」「働かない者への手厚い保護政策は見直すべき」といった自己責任論が飛び交うことは必至だ。最近では、3年以上前にシリアで行方不明となったジャーナリストの安田純平氏が無事に解放されたケースについても、「行くなと言われている場所に自己責任で行った結果でしょ?」といったネット上の書き込みや、「あなたを助けるためにかかった諸々の費用はすべて負担してください」、「韓国籍のウマルだっけか、やっぱチョンだから助けたってわけ。日本に帰ってくるなよ、韓国に行くか自害しろや」といったヘイトコメントが垂れ流され拡散し続けている。
保育所に入ることの出来ない待機児童を抱える母親に対しても、こうしたヘイトグループは、「子どもをつくった自己責任」と言うのだろうか、同性カップルに対して「子どもをつくらない。『生産性』がない」と切って捨てるような差別投稿も根は同じだろう。
日本の人々がほとんど知ることのない国に出向き、情報をつぶさにキャッチするジャーナリストの安田氏、こうした民主主義を支える仕事ぶりに敬意を払うどころか、みんなで同調して石を投げつける社会が、民主主義国家といえるのだろうか。「国が助ける必要はない」「自己責任だ」と簡単にかたづけてしまう優しくない社会を変えようという動きがこそが、統一自治体選挙の争点のひとつだと思う。
冷淡な社会になってしまっている。この世に生を受けた者すべてが、生きる権利を持っているのであり、誰ひとり必要のないひとなどいないのだ。あらゆる社会的弱者や少数者に対して、その生産性を理由とした存在否定を拡大してしまえば、「生産性のない人間は必要なし」という発想となり、人権と福祉の否定そのものとなる。
意思を持った生き物である人間は、その誰しもがまた不完全なのだ。完璧人間など存在しないのである。つまり、そこには個人差があり、属性差によってどこか欠点や課題を抱え、弱い部分があり、その格差やハンデをできる限り凹凸のない社会にしていく過程こそが政治の力だ。福祉やアファーマティブアクションはそうやって実現されてきてたのであり、水平な社会をめざすと立ち上がった先達の意志、つまりは、「水平社会をめざす」ということでもある。推薦する候補の奮闘を!!!