Vol.176 新型コロナウィルス対応に見る本来の人権とは

「新型コロナウィルスの感染が国内でも広がりを見せていますが、感染した方や医療機関関係者及びそのご家族、中国から帰国された方、中国籍の方等に対する誤った情報や不確かな情報に基づいた不当な差別やいじめ、SNSでの誹謗中傷等の人権侵害は、あってはなりません」(宮崎県)

「新型コロナウィルスの感染が広がっていますが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などで、感染した人や御家族、治療にあたった医療機関関係者、中国から帰国された人、我が国に居住する外国人などに対する根拠のない差別的な書き込み等が広がっているとの報道があります」(横浜市)

自治体のホームページで、新型コロナウィルスの感染に関わって、不確かな情報に基づいた人権侵害があってはならないという注意喚起が広がっている。どれもが、人権への「配慮」だとしているが、人権問題は果たして、「配慮」なのか・・・どうも違うように思えてならないのである。

「豪華客船」ダイヤモンド・プリンセス号の乗員乗客に対しては、「強制停泊」、「強制隔離」という措置を取った。何らの法的拘束力を持つこともなく、乗員や乗客への説明責任も果たさないまま強行された。そして、クラスター化し結果としては感染を広げるという事態を引き起こしてしまった。

新型コロナウィルスは、中国の武漢から発生したものではあるが、こうした新型ウィルスは10数年に一度の割合で発生してもおかしくない。これほど地球全体が経済活動などにおいて行き来する時代には、地球的規模によるウィルス撃退の国際的連帯が必要なことは言うまでもない。つまり、ウィルス発生は天災的要素が高いが、これが広がるかどうかは人災的側面が強い。間違いなく日本は政府対応が後手後手に回り、人災として感染を広めた責任は重い。
 昨年12月に中国・武漢で原因不明の肺炎患者が見つかってから2ヵ月以上もの間、危機感どころか関心さえろくに持たずに過ごしてきた安倍晋三首相が、尻に火が着いたように慌て始めたのが2月24日からの週で、27日には唐突に全国一斉休校を宣言。それが余りに不評であったため急いで取り繕おうと29日に記者会見を開いて、これがまた準備不足でむしろ傷を広げるというお粗末な結果を招いている。

モリ・カケ以来、最近ではカジノ問題、河井夫妻事件、桜を見る会、検察人事など数々の疑惑事件に至るまで、どれもこれもその場限りの口先だけの虚偽、捏造、隠蔽で切り抜けようとするばかりで、国民はもう長い間、何とか逃げ切ろうとしている安倍首相の姿しか見ていない。

危機突破のための結束を呼びかけたところで迫力はなく、耳を傾けるどころか、信用されていない政府として信頼が底をつくという、それこそが「非常事態」である。

問題は「感染者への差別や偏見をなくそう」という啓発や教育における「人権」ではなく、初動の対応と情報公開の徹底による本来の「人権」意識に基づいた責任ある施策としての対応が必要だ。
 人権啓発や人権教育を否定するものではなく、第一義に必要な対応は、人権侵害につながらないための初期対応にどうとりくむかという権力者の姿勢と判断が問われているのである。

「豪華客船」ダイヤモンド・プリンセス号の乗員や乗客3700人に対して、法律の枠を超えた緊急避難として全員のPCR検査を早期に実施し、冷遇な待遇で働いていると言われていた乗員・クルーに代わって新たに別の支援する人々を船内に送り込み乗客への対応をしてもらう。さらには、3700人という大人数に対応するため陸地への分散隔離に協力してもらうよう呼びかけるなどの対応をしていれば感染・保菌率を低く抑えることができたのではないかと推察する。

ひとの生命を守るという人権が、閣内不一致や既得権益優先の政治により、後退させられているのが現実だ。

「表現の自由」や「報道の自由」を前にいつも人権は制限される。ウィルスの感染を前にしても人権の制限だとあたかも感染拡大防止の阻害要因のように扱われる。つまり、人権とは制限や配慮するというものではなく、時の権力者や権限に責任を持つものが判断して指示をする。求められるものは、人権の視点により課せられた権限をもつ者の責任においた判断である。ここがあいまいであったり、抽象的であったりするからこそ不確かな情報に基づいた不当な差別やいじめが引き起こされるのである。

いまこそ差別を葬り去るほどの意志決定が求められているのである。