Vol.199 終戦期と変わらぬ危機的な状況。節目の2022年をどう迎えるのか

2月23日は「天皇誕生日」であった。最近、天皇家の話題と言えば、姪の結婚の話が中心であり、新聞などでの誕生日報道も控えめと表現したいほど扱いは小さい。

2019年4月1日、日本政府は平成に代わる新元号を「令和」と発表。新天皇の即位に伴い、5月1日から切り替わった。いわゆる「生前退位」による天皇の譲位であり、高齢を理由による退位となった。

そのきっかけとなったのが、2016年8月に出された「象徴としてのおつとめについての天皇陛下のお言葉」の発表である。メッセージを通じて、被災地への慰問、戦跡地慰霊をはじめ、全国各地を歩き、人々と触れあうことが「天皇の象徴的行為」として最も大切であり、「全身全霊をもって」それにあたってきたが、高齢により果たせなくなるのでは天皇の座にあることに意味がない、と訴えたのだ。

「国事行為や公務を限りなく減らしていく」ことや、「摂政を置く」ことは、そのことの解決にはならないとも明言している。いわば天皇による政治に対する問題提起でもあり、憲法違反の疑いさえ指摘される思い切った発言であり、時の政府や内閣はそれこそ“ビックリ仰天”ではなかったろうか。

この言葉を受け、政府は皇室典範改正という真正面からの議論を棚上げし、一代限りの「生前退位」を認める特別立法という、いわば本質論議を避け、逃げ切る策を抗して対抗するという手段に出た。皇室典範改正となれば、女性天皇や女性宮家の問題など、象徴天皇制全体の制度設計をも含んだ形での議論の展開が必要となり、さまざまな意見が噴出してしまうことへの懸念からだ。

当時は安倍内閣であり、「男系男子」一筋で「万世一系」神話を守りたい安倍氏やその背後にある日本会議系のメンバーは、それを何より嫌っており、何とか一代限りの特別立法で切り抜けようと策したのである。

さて、今年の天皇誕生日には「天皇制を考える」と題して学習会を府連として開催した。京都精華大学の白井聡さんを招いてのリモートでの学習会となった。

白井さんは、天皇を神聖不可侵の絶対的存在と位置づけ、これに対する忠誠を日本人の崇高な責務として強要した戦前の「国体」、そして戦後のアメリカに従属した構造そのものもを戦後の「国体」であると表現され、永続的に敗戦し続けていると指摘した。

戦前の「国体」の象徴とも言える天皇のポジションが、戦後にはアメリカの「星条旗」に移行したと捉えるべきだとの問題提起であり、核の傘どころの議論ではなく、まさに従属しているのだと強調された。

明治元年の1868年から敗戦の1945年までの77年間を戦前の国体の歴史と位置づけられ、1945年からを戦後の国体の歴史と規定された。そして、国体は2度死ぬと解説され、現在の政治状況を国体の崩壊期の最終段階と説明されている。

たしかに敗戦濃厚と言われた末期においても日本軍・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しが立たなくなった時期においても、さらに神風特別攻撃隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させている。

現在に目を移せば、森友・加計問題からはじまる公文書の隠蔽・改ざん、桜を観る会、学術会議の人事拒否という問題。河井夫妻の巨額買収事件。緊急事態下による与党議員のステーキ会食や銀座での飲食などスキャンダルに、今度は菅首相の長男の総務官僚への違法接待疑惑、そして森喜朗=東京五輪組織委員会会長の失言・辞職と、1945年当時と変わりないほどの政治崩壊の危機的状況にあると白井さんは、結論づけている。

たしかに明治維新から敗戦まで77年間と敗戦から今日の政治崩壊にいたる足跡には共通するところが多く、日本はひとつの時代の幕切れを迎えているのかもしれない。そして、戦後77年目の2022年は水平社結成から100年という年でもある。大きな時代の節目である。

101年目からの部落解放運動をどう展望していくのか、かつて部落解放運動の「3つの命題」と言われた解放理論のひとつに「主要な生産関係からの除外」という概念がある。これをコミュニズムや「社会的共通資本」と捉えれば、共同体による自らの共同的な起業(経営)とは言えなくはないのではないか。

労働者協同組合法という新たな法も成立している。雇う、雇われるという会社ではなく、共同で出資して共同で働く事業体に法人格を与えようという試みだ。生産関係から除外ではなく、なんなら自分たちでつくってしまおうとの提案は、差別撤廃や新たな社会の建設に一石を投じることにはならないか。思い切って次の77年にチャレンジしていきたい。