Vol.205 相次ぐ被差別身分抜きの「士農工商」報道

水平時評の171号(2019年12月20日)で、最近の小学校や中学校の社会の授業では、「士農工商○○」という身分制度が江戸時代につくりあげられていたとは習わないということを報告させてもらった。

現在において、50代のおっちゃんが「部落っちゅうのはな、士、農、工、商の下にな、不満をそらすため……」と上から目線で演説すると、たちまち「ふっるーい! いま、教科書にそんなこと書いてないわぁ!」と恥ずかしい結果になってしまうらしい(笑)。

「そもそも江戸時代に時の権力者が、ひとびとの不満を権力側に向けられることを恐れ、不満の目をそらすために、士農工商の下に『えた、ひにん』という身分をおいて、人の嫌がる仕事を押しつけたんやぁ」と、小学校や中学校の授業で習った記憶のある人が多いのではないだろうか。それはそれでひとつの考え方としては通じものがあるが、江戸時代に身分制度が確立されたからといって突然、えた・非人に対する差別が現れるというのは当然のことながら不自然である。

確かに「士農工商」という言葉は存在したのだろうが、この「士農工商」は当時の実態を反映したものではなく、「士農工商」の下に「えた・非人」をつけることによって、現在の部落差別を合理化するための論理としての役割が大きかったのではないかという近世部落史研究がたどり着いた研究結果が、最近の教科書での指導内容の大幅な変更へと結びついている。

実際に存在したのは、支配する武士身分、支配される百姓身分と町人身分、そして支配され差別される被差別身分であると整理され、教科書への記載となって変化しているのである。

こうした変化の動きに対して、マスコミ業界でそれをとりあげる動きがテレビや新聞で散見されるようになってきているが、その指摘がじつに不十分であり、被差別身分の存在を軽視する報道が相次いでいる。

 1.「朝日新聞」2月17日の「天声人語」では、近世身分制を「士農工商」と呼び、被差別身分についての記述がなく、2.3月14日に放送された「NHK」大河ドラマ『青天を衝く』第5話では、近世の身分制を「士農工商」と説明しただけで、被差別身分については説明がまったく触れられていない。3.「読売新聞」4月27日(夕刊)の「江戸の身分制」という記事は、「士農工商」は教科書から消えたとしながらも近世の身分制として説明し、被差別身分の「えた」身分については辛うじて触れてはいるが、その内容は不十分であり、 4.「テレビ朝日」5月8日の「池上彰ニュースそうだったのか?教科書が大きく変わる!日本の教育SP」は、「士農工商」が現在の教科書では使用されていないとしながらも、近世の身分制を「士農工商」として説明しただけで、被差別身分については触れられなかった。

など、いずれも「士農工商」は説明するものの、被差別身分については何ら触れられることはなく、被差別身分の階層の存在そのもののが素通りしてしまうと言う記事と放送内容だ。

一連の記事と放送には明確な差別的意図がないものだとは理解はしているが、新聞と放送の持つ絶大な影響力を考えれば、被差別身分という部落問題の観点をとりあげることなく記事や報道をされた事実はきわめて大きな汚点であり、反省を求められるものではないだろうか。

実際に存在したとされる身分制については、武士身分、百姓身分、町人身分、被差別身分などの身分呼称を使用し、とくに被差別身分が存在したことを明確に説明するべきであり、その歴史的な経過も含めて記事や放送内容にきちんととりあげるべきだと主張したい。

さらには、被差別身分に対する差別と抵抗の歴史も含めた説明や解説を織り交ぜてもらえばなお購読者や視聴者により理解が深まるものとして関係者には期待したいと思っている。古い教科書で「士農工商」として学んだ人びとが多いだけに、部落問題に関する正確な歴史認識が十分に広まっていないばかりか、深刻な誤解と混乱がマスコミ業界に横たわっているのが事実のようだ。そして、こうした捉え方は何もマスコミだけではなく、40代後半の世代にいまなお「士農工商○○」という間違った理解で捉えられている階層が数多く存在している事実に目を向けることが重要のようである。

鳥取ループの裁判においても現代社会に部落民や部落出身者が存在しているのかという点がひとつの裁判の争点となっている。武士身分、百姓身分、町人身分だけが江戸時代と言われる近世身分制として確立されてきたわけではない。その時代にも明確に被差別身分という当時者の存在を抜きにして日本の歴史は語れないのである。そして、現代社会においても被差別階層の存在を決して否定してはならない。

被差別階層がいるのか、いないのかといった問題を被差別当時者を抜きにして決めてはならない。