Vol.209 政権延命に利用される不祥事続きの東京五輪 

「蓮舫さん。関口さん。青木さんや羽鳥さんやテレ朝の玉川さん」に対して、SNSで批判の嵐が吹き荒れている。理由は、「もともとオリパラ、とくにオリンピックについて中止・延期を主張し続けていた」と言うのが炎上の理由らしく、「舌の根も乾かぬうちにオリンピックで日本のメダルラッシュを称えている」といわゆる“手のひら返し”に批判が殺到しているという構図らしい。「あんだけ中止しろと叫んでおいて」「どの口が」「あきれた」などと批判が噴出しているのだ。

立憲の蓮舫さんに至っては、「お見事なダブルスタンダード」だと批判し、「ダブルスタンダードって国籍にも当てはまるからこの人の特権なのでしょうね」という露骨な差別表現まで用いて批判を展開している有り様である。

そもそも連日熱戦を繰り広げ、「勝った」「負けた」「金メダル獲得や」「銀メダルだぁ~」とテレビやネットで一喜一憂している視聴者として単純に個々の選手への声援を褒め称えるツイートや書き込みが、もともとオリンピックに反対していた面々が、その選手を称えるコメントをつぶやいた途端、批判の嵐にさらされるというのは如何なものかと思ってしまう。

単純に頑張った選手へのねぎらいの言葉もそもそも論としてオリンピックに反対していた人物が、主張する権利さえ否定されてしまうと言うきわめて露骨な人権侵害が社会全体に広がり、嫌なムードが形成されようとしている。

しかし、よくよく考えれば、始まりは2013年9月のブエノスアイレスのIOC総会でのプレゼンテーション。福島第一原発事故は「アンダー・コントロールが完全に出来ている」と東日本大震災・福島事故からの「復興五輪」としての東京五輪を是非とも実現させてほしいとアピールしたのが事の始まりである。今になれば、「復興五輪」とはただ世界の関心を惹きつけるための口実に使われた可能性は極めて高く、どこに復興がイメージできるオリパラなのかと疑わざるを得ない演出となっている。2016年のリオ五輪閉会式で当時の安倍首相はスーパーマリオの衣装で登場するなどの露骨なハシャギまくりを全世界に披露した。

それ以後のトラブルの連続は周知のことではあるが、とくに今年に入ってからの不祥事は相当に酷いものであり、まずは2月に組織委員会会長の森喜朗による女性蔑視発言からの辞任でスタートし、開会式の演出家=佐々木宏氏が女性容姿侮蔑で辞任表明。音楽担当の小山田圭吾氏が過去の「いじめ自慢」発言で辞任。絵本作家であるのぶみ氏が文化イベント出演を辞退。開閉会式の演出を担当した小林賢太郎氏が過去の「ホロコースト揶揄」発言で解任するというまさに“お粗末”過ぎる経過をたどり、ようやくオリパラ開催に漕ぎ着けたのである。

その一方では、吹き荒れるコロナ禍の感染者増という現実である。開催都市東京では4回目の緊急事態に突入している。政治判断が問われるこうした緊急事態に対して、政府や東京都は、感染抑制の遅れをカバーするのは「ワクチン接種しかない」という方向のみに傾いており、「政治も政局も全てワクチン次第だ」と“ワクチン一本勝負”に突入していると思わざるを得ない状況だ。

そのワクチンでさえ、十分な供給量を満足に確保できない事態に陥っているにもかかわらず、オリパラ開催に踏み切った政治判断そのものに批判したり、反対していたメンバーに対して、「白熱するオリンピックを見て喜ぶな」と言った意見や「メダリストに賛美を贈る権利は貴様らにはない」といった露骨な書き込みが繰り返されるのは、極めて痛々しい由々しき事態と指摘したい。

マスク生活へのイライラやなにかと生活が制限されるというコロナ禍の現実は、閉塞感がいまにも風船が割れるほどのストレスとなっており、息苦しい社会となってわたし達の前に立ちはだかっているという事については理解はするが、社会にはもっと寛容さが求められて然りなはずであり、しかも相手の出自などを揶揄し、差別的な主張は行き過ぎた人権侵害である。多様性とは、多様な意見にも耳を傾けるという意味でもある。いろんな意見があり、いろんな人がいてそれでいい。それが多様性の根本である。だからこそ開会式は、多様性に重点を置いた演出となったのではないのか。

五輪を成功させ、なんとか内閣支持率を上昇カーブに持っていきたい一身で、政権の延命を図ろうとする菅内閣の前のめりの自己都合による猪突猛進に日本全体の舵取りを任せて良いのだろうか。しかし、この前のめりのおかげで、広島への原爆投下直後に降った「黒い雨」を巡る訴訟で、菅首相は上告断念を決めた。世論の反発を避けたい思惑が、ここでもその力が発揮されたことになる。皮肉なことである。