Vol.232 みんなで参加 みんなで決める 投票日に改めて考える民主主義

 

今日は、参議院選挙の投票日だ。
日本の政治の大きな一大決戦の日でもある。
しかし、2日前の金曜日前代未聞の蛮行が起こった。言うまでもなく安倍元首相が演説中に凶弾に倒れるという出来事である。
「なぜ、治安のよい日本でこんなテロ行為が」「こんな現実が起こるとは・・・」など不安と動揺が広がっている。
「民主主義への挑戦である」とか、「暴力による言論封殺」や「民主主義への暴挙である」と何度繰り返されてきたことか。あらためて言論を暴力で封殺しようとする行為は、許されるべきものではなく、民主主義そのものを否定する卑劣な行為である。

「民主主義」とは、「みんなで参加して、みんなで決めること」であり、意見の違いや考え方の違いを超えて議論した考え方や一定の結論は、みんなで守っていこうという約束事であり、長い世界史において人類の知恵として到達した考え方だ。

しかし、この民主主義は時間がかかる行為であり、合意形成に手間暇が必要な正直邪魔くさい制度でもある。ひとりの独裁主義の方が、判断が速く、短時間での決定を下すことが容易な制度でもある。だがそうした歴史が、ひとりの独裁者による強引な決定を生み出し、歴史における大虐殺や戦争という大惨事を引き起こした歴史を私たちは忘れてはならない。だからこそ少数意見も尊重され、誰ひとり取り残されることのない意思決定の場が必要であり、それこそが民主主義の基本である。

しかし、日本における民主主義の具体的な行為でもある選挙において投票率はいつも50%前後を推移している。全世界から見れば、日本の投票率は139位であり、先進国ではダントツの最下位である。これで果たして「みんなで参加して、みんなで決める」という民主主義が担保されているのであろうか。政治へ参加しているという意識が、すべての有権者に存在しているのであろうか。1億2千万人のすべてが国会に登壇できる術はない。だからみんなの一票一票で、わたしたちの代表を国会へ送り込み自分の代弁者として国会議員が活動しているのである。この有権者と国会議員の距離が乖離し過ぎているのか。選挙に行かないから無関係なのか。この現状が日本における民主主義の姿である。

加害者である犯人の犯行に至った動機や背景など、まだ十分に明らかにされていない現段階において軽率に語ることはできないが、間違いなく社会や日常生活において“居場所”があったのか、首を傾げざるを得ない実態が報道から散見される。つまり、彼もまた民主主義社会において、「みんなで参加して、みんなで決める」という枠内に参加することができず、自分が社会に存在し、必要とされる人間として位置付いていたのかを考えれば、大きな疑問を持たざるを得ないのではないだろうか。

世界の若者の意識調査で、「自分の国に将来発展していく可能性を感じるか」との問いに、スウェーデンの若者は31.4%、アメリカは24.1%に対して、日本の若者は、たった7.3%という結果が報告されている。この国の将来に期待を感じなくなっている若者。民主主義の権利の行使でもある投票という行為においても有権者の約半数程度しか投票へ行かない現実。「民主主義への挑戦である」とか、「民主主義への暴挙である」という前に、本来の民主主義の国になるような努力が、政党の枠を超えて努力しなければならない課題ではないだろうか。

新しい資本主義とは、“民主主義のペレストロイカ(再構築)”に取りかかる大事業だというぐらいの議論を今後は国会で闘わせて欲しいものだ。

街の自治への参加意識もない。職場でも孤立し、誰とも会話することなく、業務を終えていく人は少なくない。子どもは、いじめられ家では育児放棄。これが人類の英知がたどりついた民主主義なのか。あらためて痛ましい事件を振り返り、言葉だけでなく二度とこうした事件が起こることのない社会となるよう「みんなで参加して、みんなで決める」というルーティンを自分たちの組織や団体でも体現していくことが重要だと思う。ひとりとしてこの世に存在しない方が良かったと感じるような社会は、やはり間違っている。誰もが社会に必要とされるにんげんであり、その存在は決して否定されるものではない。

決して「暴力の連鎖」にだけは発展させてはならない。