Vol.248 「差別の感覚持っていない」と言い切る岸田首相の感性

大阪毎日放送のアナウンサーの西靖さんのツイッターが目に飛び込んだ。

「正直言って私自身は自分の中に誰かを差別的に見てしまう感覚がないか常にビビっているし、たまにそれを見つけてゾッとして、自分にゲンナリして、アップデートしようと格闘して、という繰り返しです。『差別の感覚は持っていない』と言い切れるって、まあすごいなと思います。」とつぶやかれていた。

「差別の感覚は持っていない」との発言は、国会での岸田首相の答弁を紹介しての事だが、自分は差別的に見てしまうという感覚に対して、つねに心の中で葛藤し、アップデートしようと謙虚に差別意識と向きあっているという西靖アナウンサーの素直な意見が目に止まった。

「なるほど」・・・差別しようとする自分の意識の存在を認めた上で、謙虚な姿勢で、差別してしまう可能性を否定することもなく、つねにそうした自分と格闘して、向きあいバージョンアップしていこうと日々努力することが、差別や人権侵害に向きあう自分の姿勢であるとの立場を紹介されている西靖アナウンサーに共感を覚えるのはわたしだけだろうか。

岸田首相の「差別の感覚は持っていない」との国会答弁は、LGBTQ関連法案に対するやりとりの中から発せられた答弁である。同性婚の制度化について「社会が変わってしまう課題だ」との発言と同様、人権問題に対する感覚に謙虚さやつつましさは微塵も感じない。

アメリカ社会における黒人に対するアファーマティブアクション(積極的格差是正措置)や、わが国においても1969年から実施された同和対策特別措置法、さらには、ジェンダー平等に対して女性の社会進出を促進させるためのクォータ制(一定女性の枠をあらかじめ定める事)の導入など、社会的弱者(マイノリティ)に対する差別を、歴史的経緯や社会環境を鑑みたうえで救済していこうとする制度・政策である。

しかし、こうした考え方につねに付きまとうのは、「なぜ、そのひとたちにだけ特別に」「わたしたちの生活も大変なのに」「特別対策はおかしい」「はれものにさわる様な手厚い援助はやめろ」という優遇措置への“ねたみ”と“そねみ”という一部の優遇措置への“腹立しさ”と言う捉え方である。

こうした優しくない捉え方をさらに一歩踏み込めば、同性婚に対して「生産性がないひとたちのパートナーシップを認めるべきではない」とする考え方に行きついたり、「障がい者への税金投入は無駄遣い」との露骨な逆差別へと悪質化していく傾向が強い。

黒人への差別もジェンター平等の課題も、そして部落差別も社会的・歴史的な経過をたどり今日を迎えている。突然、差別や人権侵害がはじまったわけではなく、長年にわたる歴史的経緯があるからこそ、マイノリティに対する積極的是正措置がとりくまれてきたのである。「そっとしておけば差別はなくなる」ということはない。マイノリティ当時者の歴史や苦悩を学び、その差別の厳しさゆえの劣悪な環境や生活実態の深刻さを知ることによって、誤解や偏見という呪縛から解き放されるのではないだろうか。

西靖アナウンサーが自分自身を戒めているように、自分はつねに差別する可能性を持っているニンゲンで、だからこそつねに心の中で葛藤し、自分の差別意識と向きあうということをルーティンとしているという謙虚な人権への姿勢こそが、マイノリティに対する制度や施策への納得と共感につながる唯一の道ではないだろうか。

歩み寄ろうとする姿勢と学ぼうとする謙虚さがつねに自分の中の考え方の真ん中に位置するようにたゆまない努力を繰り返し繰り返し、くどいぐらいに自分に言い聞かせることが人間形成にとって必要なことのようである。

自分の差別意識を「たまにそれを見つけてゾッとして、自分にゲンナリして」という経験をどれぐらいのひとが体験するのであろうか。ほとんど場合は、ゾッとするのではなく、自分の頭の中を右から左に通り抜けるぐらいで、そんなことを考えたしまった自分にゲンナリするひとなど、ほんの一握りのひとに過ぎないように思うが・・・差別意識にハッとして、つねに“反省、反省”などと謙虚に自分に向きあおうと努力している西靖アナウンサーに頭が下がる思いだ。
 
差別とは、謙虚な姿勢で向きあうことからはじめなければ、その壁はなかなか乗り越えることが難しいようである。