部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
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6月28日に出された「全国部落調査」復刻版出版事件の控訴審判決が、日増しに評価を高めてきている。とくに部落問題の認識について、あらためて確認すると以下の通りに指摘されている点がきわめて評価ができる点だ。
「本来、人の人格的な価値はその生まれた場所や居住している場所等によって左右されるべきではないにもかかわらず、部落差別は本件地域の出身者等であるという理由だけで不当な扱い(差別)をするものであるから、これが上記の人格的な利益を侵害するものであることは明らかであるが、〜(中略)〜本件地域の出身者等であること及びこれを推知させる情報が公表され、一般に広く流通することは、一定の者にとっては、実際に不当な扱いを受けるに至らなくても、これに対する不安感を抱き、ときにそのおそれに怯えるなどして日常生活を送ることを余儀なくされ、これにより平穏な生活を侵害されることになるのであって、これを受忍すべき理由はない」と指摘した点である。
ここで指摘されている「推知」とは、“推察によって知ること”との解釈からすると、ネット情報や書物、人からの伝達などによって、「あのAという人は、部落の出身者である」という情報を知ることによって、実際に不当な扱いを受けなくても、これに不安感を抱き、おそれに怯えることで、平穏な生活に支障を来す行為であり、人格的な利益を侵害するものだと断罪している。
この判決文を読んで、思い出したのは、わたしは現在61歳だが、1年前の60歳の還暦と50歳の時に開催された中学校の同窓会のことだ。50名から60名ぐらいが参加者がいたが、その席で、何人かの同級生から「実は、娘の結婚で悩んでいる」「自分が西成の部落の出身だとは子どもに説明していない」との相談を受けたことが脳裏をよぎった。
たぶん相談してくれた同級生は、学生時代か、社会人になってからかはわからないが、西成という被差別部落をはなれ、生活をし、恋愛をし、結婚、出産という人生を送ってきたに違いない。そして、自分の子どもがいざ、結婚という時期を迎え、それこそ平穏な生活が、相手側に「結婚相手の父親が西成の被差別部落の出身である」という事実や、「つきあってる相手の母親が部落の出身らしい」というおそれに怯えているというのだ。どう対処して良いのかわからないとの相談を受け、部落差別という現実は、実は、部落内にも存在しているが、実態は、何らかの理由で、部落をはなれている、もしくは、部落にルーツを持つひとたちが、それこそ推知させる情報が公表され、一般に広く流通してしまうと言う恐怖感を持って日々生活しているひとの存在があらためて浮き彫りになったと言える判決内容だ。
鳥取ループのメンバーは、裁判で「部落を公表すれば差別はなくなる」と主張した。
それに対して、判決文では、「公表されることによって、これが解決される具体的な根拠、見通しがあることを基礎づける証拠もない」と一蹴している。被差別部落の出身を暴くという行為が、どれほどの社会悪であるか、さらには許されない卑劣な行為であるかを断罪した判決である。
自らが、被差別部落の出身であったり、部落に何らかのルーツを持つものという自覚は、自己認定であり、他人からとやかく言われる筋合いのものでなく、また推知されるものでもない。今回の判決は、出自を暴いたり、推察させる情報を鵜呑みにして被差別部落の出身者であるというレッテルを貼ることは、まぎれもなく、こうした行為は、「“不当な扱い(差別)”にあたり、人格的な利益を侵害するものである」と明確に否定したのである。
また、鳥取ループの主張している「被差別部落という地域を公表しないことがかえって差別を助長することになる」との意見に対しても判決は、「(被差別部落の地区の公表は)、不当な扱い(差別)を招来し、助長するおそれがあることは明らかである」と切り捨てており、あくまで被差別部落の地域を特定したり、暴いたり、推知するような卑劣な行為によるアウティングは、平穏に生活する権利の侵害に他ならないと明確に否定したのである。
こうした判断は、昨今の地方行政に見られる「部落差別はわがまちには存在しない」といった否定的な意見や、「過去には、同和地区と指定をした地域は存在したがいまはない」といった部落差別の存在の否定、さらには、当該行政区に「被差別部落住民はいない」とする地方行政の間違った考え方をも批判する高裁の判決であり、部落差別がいまなお存在し、不当な扱い(差別)を受け、おそれに怯え、平穏な生活が侵害されているという事実を直視し、同和行政は推進されなければならない。