部落の高齢化、若い人たちの部落離れは、いまや全国的な共通の問題として挙げ
コラム | 2024年11月16日
コラム | 2024年1月26日
正月早々、北陸・能登半島を大災害が襲うこととなった。
1月1日午後4時10分に生起したM7.6という大地震とそれにともなう津波や火事、家屋倒壊による被害が日を追うごとに拡大してきている。お亡くなりになった方々へのお悔やみを申し上げるとともに、被災された方々に心からお見舞いを申し上げる。
避難生活を余儀なくされておられるみなさんへの支援を、部落解放同盟としても応援ボランティアなどの支援活動などに取り組んでいきたいと考えている。
石川県は1月25日、能登半島地震で確認された死者が236人になったと発表。住宅被害は輪島市をはじめ七尾市や志賀町などで計4万1800棟という大きな被害に加え、道路などの生活基盤の破損や機能不全、水道や電気の不通などインフラの破壊など、北陸の雪深い地における冬の大災害は、まさに目を覆いたくなるような甚大な被害をもたらしている。
1995年1月17日兵庫県を襲った阪神淡路大震災の被災者支援で、府連は、1月22日夜に各支部から水、食料品、衣類、生活用品などの支援物資を満載にしたトラック、マイクロバス、ワゴン車など85台が集結。現地に向かうボランティアは350人を数え、第一弾としての緊急支援行動が取り組まれた。あれから29年。2011年には東日本大震災が起こるなど、地震大国日本として、防災や地域コミュニティの再生など、いのちと暮らしを守る文字通り“人権のまちづくり”は、部落解放運動の中心課題として位置付けられるようになった。
今後、能登半島地震の復興に向け、被災者支援をはじめとするボランティア活動を精力的に取り組んでいく体制を確立したいと考えている。
また昨年の暮れには、兵庫県連のメンバーと話す機会があり、ひとりの女性からうれしい報告を受けたことが思い出される。
女性が、こんな言葉を投げかけてくれた。「わたしが部落解放同盟の同盟員になったのが、1995年なんです」と言われ、その理由が、「神戸市内の部落に一番はじめに被災者の救済に駆けつけてくれたのが、山口組」だと言われ、「そのつぎに来てくれたのが、部落解放同盟の和歌山県連で、当時大量のコロッケをその場で揚げてくれたのが嬉しかった」「三番手に駆けつけてくれたのが、大阪府連で、大量の水を大きなトラックに積み込んで配布してくれたのが印象的だった」と語ってくれた。こんな出来事が続き、「被差別部落出身のわたしが、部落解放同盟に入るきっかけとなった」と語ってくれた。
確かに22日の夜遅く神戸市内に到着し、85台のクルマが次々と被害現場や避難所に兵庫県連の指示で現場へ向かった。その中で、鶴原支部が用意した大量の水の行方を巡って、神戸市役所からクレームが・・・クレームと言っても抗議ではなく、「夜遅くに避難所に水を持っていくと取り合いのパニックが起こり、混乱する可能性がある。申し訳ないが、朝まで待機してほしい」との要請であった。
朝方まで避難所近くで待機後、早朝から役所が用意したクルマが被差別部落にはいり、「ただいま部落解放同盟から水が用意されました。○○集会所前にお集まり下さい」との放送がされ、集会所前は長蛇の列となった。その行列に兵庫県連の同盟員になる女性も並んでいたのかと思うと三十年近く前の話にはなるが、随分と勇気づけられる話しである。
大災害という被害への支援やボランティアは、単発的な行為ではなく、息の長い活動が必要なことは言うまでもない。阪神淡路大震災による復興支援の活動も大阪府連・各支部とも相当長い期間、炊き出しや被災者を大阪へ招き、銭湯と食事をとってもらいまた兵庫へ送っていくという活動などを積み重ねてきた。
能登半島で被災された方にそこまでの支援は難しいかも知れないが、高齢者や障がい者、外国人などの災害弱者を見据えた継続的な支援など、部落解放運動で培ってきた「地域力」を活かした被災者への支援活動に取り組んでいきたいと思っている。と同時に組織されなかった被差別部落が石川県にも存在したことは事実である。
全国的な各都府県連の情報や宗教者や学校の先生、さらには役所のメンバーなどに呼びかけ、点在していたであろう被差別部落のひとたちへの支援にも機会があれば、チャレンジしたいと思っている。また、あらためて各支部に呼びかける。部落と周辺を含む地域における日常的な絆づくり、地域コミュニティの再生を訴えるものである。