Vol.285 受け身ではない政治との関わり方を

自民党は総裁を、立憲民主党は代表をそれぞれ国会議員と党員選挙で選出しようという選挙戦が展開されている。このコラムが、ネット上に公開される頃には、それぞれ新代表が選ばれているだろう。

わたしたちは、このふたつの代表選挙への投票権を持っていないことを良いことに、本当に切実な問題とか、関心とかとはまったく別の次元で、人柄・顔付きとか、演説の善し悪し、公約・主張とかの情報が散乱し、それをわたしたちは、「よりどっちがマシなのかなぁ」程度に品定めをするという、情けないほどに受け身な立場でまったくの他人事のような受動的な立場に押しやられている。というより、自分たちでどこか、斜交(はすか)いに対岸の火事のように気にする程度にテレビや新聞を見ている程度だというのは、言い過ぎだろうか。

そこで、反省のひとつは、この際、部落解放運動という地域を主体にした市民運動として、そのような受け身一本槍の政治との関わり方に関して発想を大きく切り替え転換してみてはどうかという提案である。

それぞれ部落解放運動や市民運動は、自分らの組織の存続やその中での構成員・メンバー個々人の生き方に関わる切実なテーマ、あるいは重大関心事を抱えている。部落解放同盟として縮小しているとは言え、全国で多くの同盟員を抱え、日々の暮らしについての相談を受ける立場であり、常に関心を持っているテーマでもある。

そのテーマに即して、いまわたしたちはこの国会でこういう法律をつくって貰いたいとか、この法律のここを改正してこういう予算措置を講じてほしいとかいった、具体的な「政策要求」を掲げ、その実現に貢献してくれると信じられる政党もしくは議員に投票するために、選挙ごとに政策協定を交わし、推薦を決定するという一応の“仕組み”を講じている。

そこで問題は、部落解放同盟が、地域社会で周辺から大きな信頼を得ている市民団体であるという自覚に立って政策提案できるかどうかがポイントだと言える。自分たちで組織している同盟員やその家族のみを対象とした改善要求では、地域との関わりを自覚し、地域全体の要求の代弁者としての振るまいがあったかどうかはかなり疑わしいのではないだろうか。

部落解放運動の闘争の中心課題は、部落差別根絶の闘いということになるだろうが、それは同時にこの国で最善の人権政策が地域を主体に“人権のまちづくり運動”として社会的責任を果たすような市民運動の展開にその未来を切り拓く運動の展開が求められているのだということを訴えたい。

日本では中曽根内閣の国鉄“改革”以来、「儲からないものは悪」として排除の論理がまかり通り、新自由主義イデオロギーが大手を振って、民営化して儲かるのなら存続、それがダメなら削減・廃止という非情きわまりない地方・過疎・高齢者の切り捨ての政治が強行されてきている。それを大阪維新の会誕生から“身を切る改革”として注目され、人権・文化・教育・福祉といった採算のとれない事業はことごとく切り捨てられ、それがまさに維新の会の人気を集める注目ポイントともなっていった。

果たして、「ローカル線『赤字なら廃止』、「『儲からない水道』の有料化」「少子化にともなう学校の統廃合」など、あらためて公共とは、儲かろうが儲かるまいが、人々が安心して生きて暮らしていく上で不可欠な社会的共通資本である限りにおいて、それを保証するのは政治と行政の最小限の義務ではないだろうか。

社会民主主義的な要求をしているわけではない。知恵を出し、市民の側も労力もカネも出し合ってその地域社会に必要な公共的価値を共同してつくり上げて行くのが、地域を主体にした“人権のまちづくり運動”ではないだろうか。自分達にとって最も身近で切実な問題を政治に向かって突きつけていく。政治とは本来、自分たちがよりよく生きるための社会的な条件を自分らが共同して整えていく営みなのであることをあらためて自覚しようではないか。