Vol.297 石川一雄さん死去 狭山闘争をどう闘うのか

「狭山いうても大阪の狭山のことちゃうで。遠い遠い埼玉の狭山やで」「そこでなぁ、24歳の部落の青年が別件逮捕されて犯人にされたのが、石川一雄という青年や」「無実やのにひどいえん罪事件やで」とわたしが、はじめて参加した府連の街頭でのビラ行動での住吉支部婦人部(現在は女性部)による衝撃を受けた演説だった。大川の恵美ネェ(当時、府連婦人部長)を先頭にリアルで、実にユニークな街頭宣伝だった。行き交うひとすべてが、立ち止まって注目する街頭行動である。

あれから40年以上が経過した。当事者である石川一雄さんは、天国へと旅立った。1963年に発生した狭山事件で部落差別に基づく見込み捜査によって石川さんは24歳で不当逮捕された。無実を訴え続けたが東京高裁で無期懲役判決が確定。1994年に仮出獄後も再審無罪を求め続けたが力尽き帰らぬ人となった。

狭山事件を差別裁判として部落解放同盟は闘い続けた。被差別部落に対する予断と偏見、そして石川さんの読み書き能力や警察による自白の強要など、当時の石川さんは、部落差別を利用され、犯人にデッチあげられた。部落差別に基づくえん罪事件として全国の部落大衆は立ち上がり、無罪を訴え、部落解放同盟の三大闘争の一つとして闘われ、大きな大きな全国運動に発展していったのである。

63年の事件発生から94年の仮釈放までが、石川さんが獄中で闘った期間であり、この約30年間は、第1期狭山闘争ともいえる期間である。それは、まさしく狭山差別裁判としての闘いであり、全国の被差別部落や部落大衆は、燃えに燃え、それこそ燎原の火のごとく狭山差別裁判反対闘争は、全国津々浦々まで広がりを見せるという闘いとなった。

94年仮釈放された石川さんの闘いは、ここから第2期への狭山闘争へと移行する時期を迎えているとわたしは思う。それは、つれあいの早智子さんとともに2人が中心となって闘うという、いわば“当事者 石川一雄”の闘いが開始されたのかも知れない。えん罪である狭山事件の石川さんを救え、「見えない手錠」をはずすんだという当事者石川一雄のえん罪を晴らせという闘いが第2期狭山闘争の特徴であったように今から思えば総括できるのではないだろうか。

読み書きができなかった当事者が、獄中で字を覚えひたすら勉学に励み、文字を取り戻していく。その過程で、自分が警察関係者からだまされ、誘導され会ったったこともない女子高校生の殺害を無理強いに自白に追い込まれていく。なぜ自白などしてしまったのか、してもいない殺人を認めてしまったのか、という自分自身の苦しみや葛藤の中から無実であるということを訴えて闘っていこうという決意と覚悟に、部落解放同盟をはじめとする労働組合、住民の会、学者、文化人など支援の輪は広がりを見せたのである。

支援者は、当時獄中にいる石川さんの「顔も見たことがない」「性格も知らない」はずである。にも関わらずである。被差別部落の青年が予断と偏見で犯人にデッチあげられたというえん罪事件が再審も認められず、未だ獄中であるという理不尽と不正義への怒りが、狭山差別裁判の原動力であったことはいうまでもない。つまり、第1期狭山差別裁判闘争の闘いは、反権力への闘いが色濃く反映された闘争であったといえるだろう。

第2期、いわば仮釈放後の闘いは、石川さん夫婦にスポットをあてた当事者石川さんのえん罪を晴らすという具体的な闘いに先鋭化されていった。それが第2期狭山闘争の特徴であったように思う。石川さんの人柄や早智子さんの献身的で明るい性格、必ずふたりで行動し、ふたりで無実を訴えるという場面は、それこそ夫婦の闘いであり、当事者の叫びであり、まさしくわたしたちの方は、支援者となり、狭山事件を応援するという立場に知らず知らずに変化をしていったのではないだろうか。

残念ながら石川さんは亡くなった。第2期の狭山闘争は、これで終えることとなる。第3期の狭山闘争をどんな戦略で、どんな方針でのぞむのか、急ぐべき時期となった。早智子さんを先頭にとか、従来通りの第2期狭山闘争を継承していては開かずの扉は開かない。第3期は司法の民主化と再審法の不備を徹底して訴えていく闘いを通じて、狭山闘争を展開していくという大きなうねりを興す闘争が求められているようにわたしは思う。あらためて石川さんのご冥福をお祈りします。