小学館から販売されている「路傍のフジイ」という漫画をご存じだろうか。
コラム | 2025年4月12日
コラム | 2025年4月12日
小学館から販売されている「路傍のフジイ」という漫画をご存じだろうか。
主人公の藤井守というまったく冴えない40代のおじさんが主人公というめずらしい漫画本である。しかし、“のほほうん”としてるフジイ君が、なんともいえない味を出しており、独特の魅力を醸し出し、周囲のにんげんがいつしか自然と惹かれていくというドラマ仕立ての漫画本である。
フジイ君はとことん、物事に執着がなく、何かを高望みするわけでもなく、またひとと比較することもない。あくまでマイペースを貫きながら、実は小さな楽しみを見いだしているという生き方だ。
そこには、「周囲と差がつく自分にあせる田中」という登場人物や、「他人からどう見られているをやたら気にしている石川」という人物達が、現場の同僚として登場し、そうした生き方とは真逆なフジイ君にいつしか癒やされていくというストーリーである。
成長、成長という高度経済成長を息抜き、培った資産を食い潰してきている現在の日本社会に、新たな「生き方」というメッセージが隠されているような漫画である。現代人にとって非常に重要なメッセージがこの作品には隠されているように思えるのである。
フジイ君は、他人を決して評価しない。評価しないというよりは、“ジャッジ”しないという方が正解だろう。つねにフラットにひとの話しを受け入れ、寛容に対応する。いつでも、どこでもマイペースで、それをムリせず実に自然にナチュラルに表現している。登場する石川さんの言葉に、「フジイさんはわたしをジャッジしない気がして、ついあんな話しまで喋りすぎた」と回想する場面などが登場する。
人生を諦めてたり、疲れているキャラクターを無意識的にフジイ君は救っていく。この“無意識”がこの作品のキモだろう。そして読んでいてどんどんフジイ君の人柄に惹き込まれていく。
フジイ君は無理してひとに好かれることをしない。だが、「会社ではつねに空気のよう」と形容され、凡人中の凡人と見えるフジイ君はどうやらこの人生を超~がつくほど楽しんでいる。
この物語を一貫して貫いているのは、「なぜ人生が面白くないのか」、「日常を楽しむことができないのか」というテーマを常に読み手に語りかけている作品だ。フジイ君は、どちらかというと収入でも、恋愛でも、友人関係でも、まったく「恵まれていない」方の部類の入るひととして描かれている。趣味はたくさんあるようだが、ひとより秀でているものはひとつもない。
それにもかかわらず、フジイ君はとても人生を楽しんでいる。ほんのささいな偶然からフジイ君の魅力に気づいた人々は、彼に惹かれ、彼がなぜそれほど生きることを楽しめているのか知ろうとする。それは、裏返しにすれば、多くの人たちが一向に生を味わい切れていないという証でもある。
読み手のこちらサイドが、ひとの一挙手一投足をつねに気にかけ、ひとからどんな風に自分が見られているのだろうかという評価を気にして、自分軸ではなく、つねに他人軸で物事を図り、社会に受け入れられるように必死で、もがき苦しんでいる自分の横をそれこそ、“のほほうん”と通り過ぎていくフジイ君が羨ましくもあり、こうした生き方を探求したいと思う読者も多いのだろう。
いつのまにかこの謎めいたフジイ君という男に注目するようになり、フジイ君よりもっと多くのものを持ちながら、人生がつまらなくてしかたないひとたちとフジイ君と、いったい何が違っているのかという疑問が湧き出てきて読む側を魅了するという作品だ。
SNSに他人を誹謗中傷する悪質で露骨な書き込みを繰り返し投稿するひとたちは後を絶たない。こうしたひとたちの心境は、そしてなぜ悪質な書き込みを行うのだろうか。「自分の存在を世に知らしめたいからなのか」「本当に攻撃対象となるひとが心の底から憎いのからなのか」「自己満足なのか」
「自分の生活は苦しいのに、一方でぬくぬくと生きている○○が許せないのか」という分断と対立という思考からの投稿なのか。つねに押しつぶされそうなプレッシャーの中で、閉塞的な社会の空気が、他人に向けられ、つねに攻撃的で、他人を追い落とすことが自分の頭の中の中心で、そしてひとからは、“カッコいい”存在として振る舞い続け、つねに自分をよく見て欲しいという願望から抜け出せないという呪縛にとらわれている現代人の“性(サガ)”なのか。
最後に田中さんとのシーンを紹介する。
(田中)「相手の知りたくなかった一面を知ってしまったらどうしますか?」
(フジイ君)「受け入れるしか自分にはできないと思います」
(田中)「でも、好きなら知りたいと思うじゃないですか」
(フジイ君)「もしかしたら、田中さんがイメージしていた人は、初めから存在していなかったのではないでしょうか」
とのワンシーンが・・・結局自分が初めからこういう人だと決めつけていた自分の主観でしか物事を見ていなかったことが気付かされた。